ひとりごと

思ったこと考えたことあれこれ。

ボーイ・ミーツ・ガール/ガール・ミーツ・ボーイズ

原作漫画の実写化として公開された映画「私がモテてどうすんだ」。青春ラブコメのご都合主義も、邦画ミュージカルにありがちな踊ることの理由の薄さも苦手だったので、正直期待していなかった。が、蓋を開けてみれば予想外の傑作だった。

 

全体的に、漫画を実写化する意味付けがしっかりとなされていたように思う。突拍子もない展開に「漫画じゃないんだから」と作中で突っ込んでいく。見せ場でもあるミュージカルシーンでは「作り話」であることを主張するように、2人の花依が同じ画面内に登場する。

漫画やアニメの中で同じことをすると、あまりにメタ的で自虐っぽくなってしまうが、実写では意味合いが変わってくる。2次元を愛し、2次元のために生きるヒロインが、実写化により「本当」の意味で現実世界に迷いこんでしまうのだ。

 

さらに前提として、六見先輩以外の男子と花依の間にはスクールカースト的断絶がある。主題歌では、花依に対する周りの態度の変化について、明確に書かれている。サビの「なにレベル分けして変えてんの?」という歌詞は、特に皮肉で強烈だ。

男子4人と花依は、次元的にも階級的にも「生きてる世界」が違う。その舞台がSFでもおとぎ話でもなく、現実世界の高校というのが面白い(劇中劇のおとぎ話とだぶらせているのも上手い)。違う界層に生きる男女が、見た目の変化で初めて相手を認識する。王道の「ボーイ・ミーツ・ガール」の文脈であり、花依からすれば「ガール・ミーツ・ボーイズ」でもある。そして、出会った相手はそのまま「世界」に置き換えることができる。

困惑する花依の心情は、ポップな主題歌で表現される。突然モテてしまう展開に歌い踊るしかない、という演出はミュージカルそのものだし、映画としても無理がない。そして、デートに誘う男子たちには花依のダンスが見えていない。ベタだけど上手い演出だと思う。オープニング時点の花依と男子4人は、完全に世界観が噛み合っていないのだ。

 

見た目の変化を人間性の変化として描く作品は山ほどある。だか、私モテは「見た目」と「人間性」を完全に切り離して作られていた。花依は自分の見た目の変化になんの感慨もない。花依にとっての衝撃は、傍観者であった自分が恋愛の当事者になってしまったことだけだ。彼女にとってはBLを愛することこそが生き甲斐で、恋愛など人生に必要ないのだ。ラブコメを謳った作品としては、画期的なヒロインだと思う。

反対に六見先輩を除く男子たちは、ステレオタイプな考え方の持ち主だ。花依に対しても「普通の女子」のイメージを当てはめようとするが、悉く失敗する。彼らの想像の範疇に収まりきらない花依だが、彼女を理解しようと躍起になるうちに、男子たちは内面にも惹かれていく。

 

結局、私モテのテーマは異文化コミュニケーションなんだと思う。異なる価値観の人間が出会って、お互いを理解しようと努力するけれど、作中では結論付けられずに終わる。原作では一人を選ぶようだが、映画ではその結末をあえて採用しなかった、というのもポイントが高い。

 

ルッキズム、オタク、BL、腐女子。ちょっとでも間違うとクレーム案件になりかねないテーマだ。それなのに、私個人は嫌な気分になるシーンが一切なかった。制作側の配慮が行き届いていたし、説教臭くもならない絶妙なバランスで成り立った奇跡的な映画だと思う。問題になりそうなシーンに対してのアンサーが、しっかり用意されていた。

私自身がいい歳のオタクなので「オタクを卒業して恋愛して、現実世界に生きましょう」という結末だったら、間違いなく受け入れられなかっただろう。オタクにとっての「好き」の対象は、辛い現実世界を生き抜くためのエネルギー源だ。それに外から口出しするのは、人格否定と言ってもいい。

主題歌には「FU FU GiRL」という歌詞があるが、これはそのまま「腐女子」の意味だし、花依は腐女子である自らを「情熱で生きてんの」と全肯定する。そして、男子たちが変えようとしたのは花依の外見であって、彼女のアイデンティティである「腐女子」の部分ではなかった。

 

そもそもBLは、女性が美醜で価値を決められる世の中から逃れるために発展した側面があると思う。劇中劇で豚になってしまうお姫様が「花依」にも「妄想の王子様」にもなり得るというのは、このテーマの本質をついていて思わず唸ってしまう。

 

現実世界で生きるのって本当にしんどい。現実世界には生身の人間しかいないだからだ。裏切られることも、誰かを意図せず傷つけてしまうこともある。
(琴葉先輩の「2次元の男はあなたを裏切らなかったでしょうね」という台詞がいい味を出している。)

しんどいからこそ、イケメンには素敵な恋人が、オタクには2次元が必要だったりする。どっちがいい悪いではなく、好きなものは大切にしないとね、という全てに対する肯定に、年甲斐もなく感動してしまった。

 

オープニングでは花依のダンスが見えていなかった男子たちも、エンディングでは花依と一緒に舞台で踊る。しかも、美人な花依だけではなく、ぽっちゃりした花依のこともきちんと認識している。互いに相手のことを理解しようとした結果のようで、感慨深い。

「好きなものを好きでいること」「人が好きなものを知ろうとすること」は、現実世界に彩りをもたらす。誰のことも否定しない、こんなにハッピーな映画は、閉塞感のある今だからこそ万人に見てほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……ところであのラスト、琴葉先輩はNGで七島くんはOKな五十嵐くん、凄くない?

 

「アンディ」という呪縛

トイ・ストーリー4に関しては、予告の段階からウッディが「おもちゃとして子供の側にいる」以外の選択をするんじゃないかと話題になっていたし、公開後も「そうなんだろうな」と思える感想ばかり見かけたので、ストーリーについては予想の範囲内だった。

範囲外だったのは、アンディという過去の存在にがんじがらめにされた今のウッディ。冒頭のアンディとの思い出から、悲しくて、愛しくて、涙が止まらなかった。
見終わってからも「アンディのおもちゃだからだ」というウッディの過去のセリフを、繰り返し思い出している。

トイ・ストーリー」シリーズはウッディとアンディの物語だった。完璧なはずの二人の関係を脅かす存在として、バズが現れるところからシリーズが始まる。
2では、持ち主に捨てられた経験を持つジェシーが登場。いつかはアンディが離れていく未来を予感しながらも、ウッディはアンディの側にいる選択をする。
そして3では、遂にアンディとの別れが訪れる。アンディとボニーがウッディたちと遊ぶ最後のシーンを見て、トイ・ストーリーは完璧なラストを迎えた(と思った)。

ウッディはボニーの元で第2の人生を幸せに送っているんだと、誰もが思ったことだろう。だけどそんなのは私たちの幻想なんだよ、とディズニー(ピクサー)は突き付けてきた。

1からウッディが一番恐れていた事が現実になってしまったのがこの4作目だった。
「誰かの一番」を知っているウッディは、バズを蹴落とそうとし、捨てられる前に逃げようか迷い、最後は自分でアンディから離れる決意をする。それはおもちゃを大切にし、アンディのように遊んでくれるボニーがいたからこその決断だったはずだ。
ウッディがボニーのお気に入りになれなかったのは仕方のないことで、ボニーに悪意がないからこそ辛い。

ウッディは誰よりもアンディの事を大切に思っていたし、ボニーに対しても同じように尽くそうとしていた。
しかし、ウッディにとっての「子供」はアンディただ一人だったということが、アンディとの別れを経てから気づいてしまうという残酷さ。

今作を受け入れられない人の気持ちもよく分かる。2で絶望していたジェシーと同じように、新しい持ち主の元で幸せに過ごすウッディを、私も見たかった。
でも、2で「アンディは成長する」という設定を組み込んだ時点で、3そして4の過程は避けられなかったように思える。

私が4をすんなり受け入れられたのは、ウッディの言動全てに現れた、アンディへの消えない思いが実に丁寧に描かれていたからだ。
アンディとの幸せな思い出があるからこそ、ウッディはフォーキーにおもちゃとしての意識を持たせ、ギャビー・ギャビーにボイスボックスを、ジェシーに保安官のバッヂを譲り渡した。
そして、アンディのおもちゃたちのリーダーという立ち位置を外れてはじめて、ウッディは「アンディ」という呪縛から逃れられたのではないか。

作中に登場するアンディは、全て過去の回想だった。壊れない限り、永遠の命を持つおもちゃにとって、持ち主との別れは死別と同義だったのだ。
そして、今作はウッディが思い出の中のアンディと別れるための、お葬式のようなセレモニー的作品だったのではないか。

ウッディの未来は白紙だ。また新しい持ち主が見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。思いがけず、大人になったアンディと出会うこともあるかもしれない。
持ち主の元を離れてもなお、「子供と遊ぶ事が何よりの喜び」だと理解しているウッディに私は安心した。また気が向いたら、子供と一緒に遊んでくれたらいいなと思う。

「自由」と「権力」はイコールなのか?

アラジン、いい意見も悪い意見も聞いていたのでどんな感想を抱くか予想できなかったけど、個人的には大満足だった。

実写リメイクをどうとらえるかは人によって違うので難しいところだけど、私は原作と同じことをしても意味がないと思っているし、やるなら原作を越えなければいけないと思うので、アニメを踏襲しつつ、いろんなアレンジを加えるさじ加減が良かったと思う。
美女と野獣」はリメイクとしては物足りなかったので、今作はその鬱憤を晴らしてくれた。
アグラバーの町並みや衣装の美しさは、実写ならではの良さがあって飽きなかったし、もう一度見たいと思う。

概ね自分の中ではあるものの、気になった点があったので、その部分について敢えて書いてみる。


今回の実写はスルタンになりたいジャスミンに注目が集まりがちだけど、同時にアラジンの立ち位置もかなり変化している。

酷い暮らしをしている主人公が魔法の力を借りて王族と結婚する、という筋書きから、私はアラジンは男女逆転版シンデレラだと考えていて、アニメの製作陣もきっとそれを意識していたと思う。
ただ、シンデレラは元々はいいお家の娘で、いじめられてはいるものの、そこまで身分は問題になっていない。シンデレラは舞踏会に行く権利があるし、不当に剥奪された権利を取り戻すためにフェアリー・ゴッドマザーが現れる。
一方アラジンは法律で王女の結婚相手は王子と決められており、最初からアラジンにジャスミンと結婚する権利はない。完全に身分違いの恋である。

実写版はジャスミンもアラジンに自分の身分を隠す時間が長い。アニメではジャスミンのせいでアラジンが処刑されてしまう下りがあるので、彼女も後悔するのだけど、今回のジャスミンは身分を隠したことを深刻に考えていないように見えた。
アラジンが王子だと言い張る嘘と、ジャスミンが侍女だと言い張る嘘は、魔法を使って高い身分となったアラジンだけが悪いのだろうか。

結局、ジャスミンが女性初のスルタンになるというのは、ジャスミンがプリンス・チャーミングになる事と同義だと思う。王子は国王になることを約束され、自分で結婚したい人を自由に選ぶことができる。国中の女性にガラスの靴を履かせてシンデレラを探すことに、誰も異義は唱えない。
スルタンとなったジャスミンは、元の世界に戻ろうとするアラジンを連れ戻しに行く。権力を手にし、すべてを正当化することができる存在となる。
そして正体が明らかとなり、城を後にするアラジンの姿は、シンデレラとしての立ち位置を完全に確立したように思える。

ジャスミンは聡明で、権力を悪用する訳はないんだけど、この作品で重要な「自由」という願いが、権力で解決されてしまうのはちょっと惜しい気がする。

例えば、ジャスミンがすべてを捨ててもアラジンと一緒にいたいと思ったなら、城から抜け出してアラジンと駆け落ちすることもできたのではないか。
例えば、本当の自由のために、スルタンとなったジャスミンが王政を廃止して、アグラバーを民主的な町にするところまで描けたら良かったのではないか。

何も持たないアラジンに対して、今作のジャスミンはあらゆるものを持っているように感じてしまう。
ジャスミンやプリンス・チャーミングを、悪者として捉えたいという意図は全くないのだけど、果たしてジャスミンがプリンス・チャーミングになることが女性の地位向上なのだろうか。

正直なところ、今作でもっとスポットを当てるべきは「女性」よりも「格差」だったのではないかと思っている。アラジンとジャファーを似た設定にするなら、尚更そうすべきだったと思う。なぜなら、アラジンが王子の振りをし、ジャファーが権力に固執した理由が「格差」だったから。
ジャスミンは女性ということでスルタンになれず、抑圧された存在であることは間違いない。だが、それでも王女だ。生きていく為に盗みをするしかないアラジンの方がよっぽど抑圧されている。
スルタンになりたいという王女かいることは悪いことではない。ただ、タイトルロールの主人公が王女の活躍に割を食ってしまった感は否めない。しかも、ディズニーで人間の男性が主人公になる数少ない作品であるにも関わらずだ。

アナ雪もそうだけど、女性vs男性という構図をこのまま続けていくのは、あまり良い戦略とは思えない。女性が強くなるとこで男性にアラジンのような我慢を強いるのも、ちょっと違うように感じる。

ただ、原作アニメ公開から25年以上過ぎた今でも、ランプの魔神や空飛ぶ絨毯より、架空の中東の国でスルタンを名乗る女性が登場することが、この作品における一番のファンタジーのように思えて、それはそれで複雑な気持ちになる自分がいる。
今作のジャスミン像に、長年女性の描き方に悩み続けてきたディズニーの苦悩を垣間見るような気がした。