ひとりごと

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「パリピ孔明」における「夢」についての一考察

これまで有りとあらゆるコンテンツに嵌まってきた。「コンテンツに嵌まる」というのは孤独な行為だと思う。何故なら「推し」は人に強要するものではないからだ。私が日常的にネットに触れるのも、根本的には「共感者」を探すための作業なのだろう。自分と同じ価値観を持ち、同じ感覚で喜怒哀楽する「誰か」に出会えた瞬間、大袈裟にいえば、一人じゃないんだ、と思う。

 

……そんな自分の前提を取っ払って、私は「パリピ孔明」という作品を世界中の人に推したい。軟派なタイトルに惑わされず、とりあえず一話を見てほしい。

現代の渋谷に転生した諸葛孔明が、無名のシンガーである月見英子の歌に魅了され、彼女の軍師として音楽業界のトップを目指す物語だ。ジワジワと上がってきた人気に反して、人々が何故この作品に惹かれるのか、という部分は語られていないように感じる。

Avex Picturesの手掛ける楽曲の素晴らしさや全編通して感じられる三国志リテラシーの高さは、確かにこの作品が評価される一因だ。けれど「パリピ孔明」の本当の強さというのは、丁寧で共感しやすいキャラクターの心理描写にあるのだと思う。

 

孔明はいわば英子のメンター的存在だが、孔明が一般的なメンター像と異なるのは、主人公との主従関係が逆だということだ。夢を諦めかけた英子に手を差しのべるのが、弱者を引っ張りあげる熱血教師ではなく、一蓮托生で横を歩いてくれる忠実な軍師、というのがいかにも令和らしい。

夢を持ちにくい時代だと思う。上手い話には裏があるし、何事にもお金が絡む。若者の貧困が叫ばれ、生きていくだけでも必死な毎日。孤独な若者たちは、甘い夢を見つつも現実を知り、道半ばで諦めたり、間違った方向に向かってしまう。

コロナも相まって閉塞感漂う日本社会に風穴を開けるが如く、クラブミュージックを爆音再生しながら現れた諸葛孔明に、どれだけの人が元気付けられただろう。

乱世の世で劉備と共に、とてつもない大志を抱いた孔明は、英子いわく大袈裟に感想を吐露し、英子の夢を問う。それも、小学校でテンプレートのようにか書かされる「夢」ではなく、英子が人生の中で培ってきた唯一無二の「夢」を。

「夢」が「音楽」に直結する本作では、登場人物達が音楽に「救われた」場面が何度も描かれる。「音楽」に比重を置いているからこそ、シンプルに実直に、私たちも登場人物の心情を追体験してしまう。そして、メンターである孔明自身が英子の歌に救われた、という事実が、この作品の構造を強固にしている。

孔明は歴史に名を残すほどの天才だ。あらゆる状況を想定し、裏の裏まで読むような心理戦を繰り広げてきた。にもかかわらず、孔明自身の行動原理は理知的というより、感情的なのが面白い。
つまり「めっちゃエモい」のに弱いのだ。一見クールに見えて、非常に感情豊かなキャラクターだと思う(とりあえず現代人は人前であんなに泣かない)。

 

パリピ孔明」で描かれる「夢」は、
「夢を持とう」「夢を諦めるな」といった精神論的旗印のようななものではなく、心の奥深くに眠る人間の初期衝動としての「夢」であり、登場人物のパーソナルに直結している。英子もKABEも七海も、きっと音楽なしでは生きていけない。それなのに、彼らは一番大切なはずの音楽と自分を切り離そうとしてしまう。英子と音楽が水魚の交わりであるのなら、音楽を捨てることは自死することと同義だろう。

この作品のテーマは、夢を「叶えること」ではなく、忘れかけた夢を「思い出すこと」だ。そして、夢を「思い出すこと」は、地に足をつけて「生きること」だ。
だからこそ、諸葛孔明が転生したのだ。1800年前に彼が願った「天下太平の夢」を私たちが思い出し、今この瞬間を生きていると実感するために。


これまで有りとあらゆるコンテンツに嵌まってきた。「コンテンツに嵌まる」というのは孤独な行為だと思う。何故なら「推し」は人に強要するものではないからだ。私が日常的にネットに触れるのも、根本的には「共感者」を探すための作業なのだろう。自分と同じ価値観を持ち、同じ感覚で喜怒哀楽する「誰か」に出会えた瞬間、大袈裟にいえば、一人じゃないんだ、と思う。

 

英子に、私たちに、孔明は言う。

「率直な意見、素直な感想は、生きているうちに語ってこそ」

 

だから、私はこの文章を書いた。どこかにいる「誰か」に、この思いが届きますように。