ひとりごと

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劇場版名探偵コナンが「緋色の弾丸」で失い「ハロウィンの花嫁」で手に入れたもの

※「ハロウィンの花嫁」及び過去作の劇場版名探偵コナンのネタバレあり

 

 

 

 

 

 

「ハロウィンの花嫁」を見て、劇場版名探偵コナンが新たなフェーズに入ったことを痛烈に感じた。これは長年コナンを見てきた中でも初めての経験だった。
監督や脚本家が変わる度に、作品の方向性の転換はいくらでもあったけど、「時代が求めるもの」にコナンが寄り添うというのは、初めてのことだったんじゃないかと思う。

名探偵コナンは、殺人を賛美しない。犯人がどんな境遇であっても見逃さず、必ず真実を見つけ出す。コナンの青臭い程の純粋さは、理想的な正義と言える。

だけど、現実は甘くない。コナンの純粋さで割り切れないほどの理不尽がいくつも転がっている。理不尽に当たるか当たらないかは運次第だ。

昨年公開された「緋色の弾丸」のラストでは、被害者遺族であり証人保護プログラムを使ったジョディが、同じ過去を持つ犯人に啖呵を切る。犯人のように自分の運命を憎むのか、ジョディのように真実に立ち向かうのか。悲しくも際立った両者のコントラストが印象的だった。

「緋色の弾丸」が本来公開される予定だったのは2020年4月。作品が作られた時にはコロナの騒動など予想がつかなかったはずだ。
つまり「緋色の弾丸」と「ハロウィンの花嫁」の間にはコロナ禍という世界的に大きなターニングポイントがあった。コナンという長寿コンテンツも、その影響を(興行面以外でも)受けざるを得なかったのだと思う。

劇場版といえば、作品ごとに焦点の当たるキャラクターとコナンの対決や協力関係を楽しむのがお約束だった。しかし「ハロウィンの花嫁」はその点がこれまでと大きく違った。江戸川コナンを主軸とした「群像劇」だったのだ。
そして毎回変わる豪華な舞台が「渋谷」という街になったことで、「日常」と「喪失」という普遍的なテーマを持った作品になったと感じる。

松田は萩原を、佐藤は松田を、降谷は親友たちを理不尽に失い、その喪失に日々向き合っている。彼らと同じ「喪失」を抱えたエレニカは、真逆の復讐を目論む。
これが「緋色の弾丸」であればエレニカの復讐は成し遂げられ、ジョディのように断罪する存在が現れただろう。

「ハロウィンの花嫁」でエレニカが銃を向けた時、コナンはエレニカを抱きしめる。エレニカは自分に起きた理不尽を叫びながら、大粒の涙を流す。
コナンが誰かを抱きしめるという行為も、エレニカの大粒の涙も、これまでなかった描写だと思う(コナンが抱きつかれる描写はあったが、コナンは立場上抱き返すことができない)。

個人的には、このワンシーンから鬼滅で描いているものを彷彿とさせられた。理不尽に鬼になってしまった存在を哀れみ、許容しようとする炭治郎の視線だ。あの大粒の涙も鬼滅らしさを感じる。

極めて異例な描写だったが、コナンの行動原理からは逸脱していないし、何より高山さんのお芝居が素晴らしかった。江戸川コナンがエレニカを抱きしめるという行為に、嘘がなかった。

結果、コナンは起こり得た殺人を止め、渋谷を火の海にすることを防ぐ。

噴出ベルトのシーンは少年探偵団の見せ場だが、これまでと違うのは子どもたちだけで成し遂げるのではなく、大人が手を貸すということ。そして、名曲「キミがいれば」をバックに大人たちが協力し合うシーンで交わされる会話はロシア語だった。

コナンはエンタメ作品なので他意は全くないはずだが、いろんなことを考えさせられて少し泣きそうになってしまった。


「時計じかけの摩天楼」の犯人はバブル崩壊で建築予算がなくなったため、予定していた建物の設計変更を余儀なくされ、連続爆破事件を起こす。以降、コナン映画は豪華な舞台をいかに派手に爆破させるか、といった見せ場的な意味合いもあって、実在するマリーナベイ・サンズまでをも壊すところまで到達した。
そして「緋色の弾丸」で架空のオリンピック会場にリニアモーターカーを激突させ、現実世界のオリンピックも延期となった。
もう、これ以上劇場版で壊せるものなんてないのだと思う。

時代に合わずバブリーな舞台を提供し続けてくれた劇場版が、このタイミングで地に足のついた「日常」に目を向けてくれたことに嬉しさと少しばかりの寂しさを感じてしまうのは古参ファンの性だ。しかし、どんなに時代が変わっても、コナンの精神性は変わらない。

名探偵コナンは、お調子者の高校生が当たり前の日常を突然失い、取り戻すまでの物語だ。私たちがコロナで体感するずっと前から、コナンは理不尽により日常を喪失していた。そして、救えず後悔した命がいくつもあった。

主題歌のクロノスタシスには「僕は僕をどう救える」という歌詞がある。エレニカを抱きしめることで、コナン自身もまた救われたのだろう。

 

今作から、劇場版は新たなフェーズに入った。「緋色の弾丸」で被害者遺族が犯した罪を、「ハロウィンの花嫁」では未然に防いだ。断罪ではなく、優しさによって。

喪失の痛みが溢れる世界に、名探偵コナンという長寿コンテンツはどう向き合うのか。「ハロウィンの花嫁」は国民的アニメの誇りと責任を感じさせる作品だった。

いつの時代も傘を差し伸べてくれる江戸川コナンに、これからもついていきたい。