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Satoshi(CV:Rica Matsumoto) - Mezase Pokémon Master -with my friends- / THE FIRST TAKE - YouTube

松本梨香さんの「めざポケ」の歌声の素晴らしさを形容する時、「昔と全然変わらない」という言われ方をする事が多いけど、そう感じる人にはオリジナルの「めざせポケモンマスター」を聞いてほしい。


【公式】アニメ「ポケットモンスター」第1話「ポケモン!きみにきめた!」(アニポケセレクション) - YouTube

アニポケの放送が始まった1997年当時、キャラクターボイスを務める声優さんが主題歌やキャラソンを歌うのはトレンドだったのだと思う。今でこそ歌は声優さんの売りの一つだけど、梨香さんがこの道を切り開いた大きな存在の一人、ということは間違いないでしょう。
ポケモンが世界的にヒットし、「めざポケ」がこれほど長く、26年も歌い継がれる主題歌になるとは誰も想像していなかったはず。

 

梨香さんのパワフルな歌声の理由は「サトシを演じ続けてきたこと」「めざポケを歌い続けてきたこと」と推測するのは簡単だけど、個人的にはもう一つ、他の声優やアーティストが経験していないこととして「子どもたちの前でサトシとして歌い続けてきたこと」がとても大きいんじゃないかと思うのです。しかもその「子どもたち」は1997年の子どもも、2023年の子どもも、みんな含まれるのでとにかく母数が多い。
「めざポケ」を生で聞いて喜ぶ子どもたちの反応を、梨香さんは26年間ダイレクトに受け止められる場所にいたわけです。

THE FIRST TAKEの「めざポケ」を聞いて、梨香さんの歌声が「昔と全然変わらない」なんてとんでもない。子どもたちの声援を受け、1997年から「世界一のポケモンマスターになるんだ」とひたすら前を見て走り続けてきたサトシの歌声が、2023年になって同じなわけがない。間違いなく「今」が頂点でしょう。

 

だからこそ、THE FIRST TAKEの「めざポケ」を聞くと目頭が熱くなってしまうのです。26年間聞いてきた中で最高の「めざせポケモンマスター」を、最終回を迎えるこのタイミングで聞けるなんて、贅沢すぎて嬉しくて寂しくて幸せで、何度聞いても情緒がぐしゃぐしゃになってしまう。

 

そして、私は同じくらいオリジナルの「めざポケ」と第1話「ポケモン!きみにきめた!」が好きです。まだポケモントレーナーとしても「サトシ」としても初々しさを感じるこの時の梨香さんの声がすごく好き。

私の人生においてサトシほど長く深い付き合いをしてきた友だちはいないので、毎週テレビをつければ当たり前のようにいた彼に会えなくなるのは本当に辛い。

だから、寂しくなったらまた無印第1話と最終回を見ようと思う。「めざせポケモンマスター」と「めざせポケモンマスター -with my friends-」を聞こうと思う。何度も見て聞いて、彼の足跡を思い出そうと思う。

アニメ「ポケットモンスター」は、何者でもない少年サトシが、ポケモンマスターになるまでの物語だから……。

「パリピ孔明」における「夢」についての一考察

これまで有りとあらゆるコンテンツに嵌まってきた。「コンテンツに嵌まる」というのは孤独な行為だと思う。何故なら「推し」は人に強要するものではないからだ。私が日常的にネットに触れるのも、根本的には「共感者」を探すための作業なのだろう。自分と同じ価値観を持ち、同じ感覚で喜怒哀楽する「誰か」に出会えた瞬間、大袈裟にいえば、一人じゃないんだ、と思う。

 

……そんな自分の前提を取っ払って、私は「パリピ孔明」という作品を世界中の人に推したい。軟派なタイトルに惑わされず、とりあえず一話を見てほしい。

現代の渋谷に転生した諸葛孔明が、無名のシンガーである月見英子の歌に魅了され、彼女の軍師として音楽業界のトップを目指す物語だ。ジワジワと上がってきた人気に反して、人々が何故この作品に惹かれるのか、という部分は語られていないように感じる。

Avex Picturesの手掛ける楽曲の素晴らしさや全編通して感じられる三国志リテラシーの高さは、確かにこの作品が評価される一因だ。けれど「パリピ孔明」の本当の強さというのは、丁寧で共感しやすいキャラクターの心理描写にあるのだと思う。

 

孔明はいわば英子のメンター的存在だが、孔明が一般的なメンター像と異なるのは、主人公との主従関係が逆だということだ。夢を諦めかけた英子に手を差しのべるのが、弱者を引っ張りあげる熱血教師ではなく、一蓮托生で横を歩いてくれる忠実な軍師、というのがいかにも令和らしい。

夢を持ちにくい時代だと思う。上手い話には裏があるし、何事にもお金が絡む。若者の貧困が叫ばれ、生きていくだけでも必死な毎日。孤独な若者たちは、甘い夢を見つつも現実を知り、道半ばで諦めたり、間違った方向に向かってしまう。

コロナも相まって閉塞感漂う日本社会に風穴を開けるが如く、クラブミュージックを爆音再生しながら現れた諸葛孔明に、どれだけの人が元気付けられただろう。

乱世の世で劉備と共に、とてつもない大志を抱いた孔明は、英子いわく大袈裟に感想を吐露し、英子の夢を問う。それも、小学校でテンプレートのようにか書かされる「夢」ではなく、英子が人生の中で培ってきた唯一無二の「夢」を。

「夢」が「音楽」に直結する本作では、登場人物達が音楽に「救われた」場面が何度も描かれる。「音楽」に比重を置いているからこそ、シンプルに実直に、私たちも登場人物の心情を追体験してしまう。そして、メンターである孔明自身が英子の歌に救われた、という事実が、この作品の構造を強固にしている。

孔明は歴史に名を残すほどの天才だ。あらゆる状況を想定し、裏の裏まで読むような心理戦を繰り広げてきた。にもかかわらず、孔明自身の行動原理は理知的というより、感情的なのが面白い。
つまり「めっちゃエモい」のに弱いのだ。一見クールに見えて、非常に感情豊かなキャラクターだと思う(とりあえず現代人は人前であんなに泣かない)。

 

パリピ孔明」で描かれる「夢」は、
「夢を持とう」「夢を諦めるな」といった精神論的旗印のようななものではなく、心の奥深くに眠る人間の初期衝動としての「夢」であり、登場人物のパーソナルに直結している。英子もKABEも七海も、きっと音楽なしでは生きていけない。それなのに、彼らは一番大切なはずの音楽と自分を切り離そうとしてしまう。英子と音楽が水魚の交わりであるのなら、音楽を捨てることは自死することと同義だろう。

この作品のテーマは、夢を「叶えること」ではなく、忘れかけた夢を「思い出すこと」だ。そして、夢を「思い出すこと」は、地に足をつけて「生きること」だ。
だからこそ、諸葛孔明が転生したのだ。1800年前に彼が願った「天下太平の夢」を私たちが思い出し、今この瞬間を生きていると実感するために。


これまで有りとあらゆるコンテンツに嵌まってきた。「コンテンツに嵌まる」というのは孤独な行為だと思う。何故なら「推し」は人に強要するものではないからだ。私が日常的にネットに触れるのも、根本的には「共感者」を探すための作業なのだろう。自分と同じ価値観を持ち、同じ感覚で喜怒哀楽する「誰か」に出会えた瞬間、大袈裟にいえば、一人じゃないんだ、と思う。

 

英子に、私たちに、孔明は言う。

「率直な意見、素直な感想は、生きているうちに語ってこそ」

 

だから、私はこの文章を書いた。どこかにいる「誰か」に、この思いが届きますように。

劇場版名探偵コナンが「緋色の弾丸」で失い「ハロウィンの花嫁」で手に入れたもの

※「ハロウィンの花嫁」及び過去作の劇場版名探偵コナンのネタバレあり

 

 

 

 

 

 

「ハロウィンの花嫁」を見て、劇場版名探偵コナンが新たなフェーズに入ったことを痛烈に感じた。これは長年コナンを見てきた中でも初めての経験だった。
監督や脚本家が変わる度に、作品の方向性の転換はいくらでもあったけど、「時代が求めるもの」にコナンが寄り添うというのは、初めてのことだったんじゃないかと思う。

名探偵コナンは、殺人を賛美しない。犯人がどんな境遇であっても見逃さず、必ず真実を見つけ出す。コナンの青臭い程の純粋さは、理想的な正義と言える。

だけど、現実は甘くない。コナンの純粋さで割り切れないほどの理不尽がいくつも転がっている。理不尽に当たるか当たらないかは運次第だ。

昨年公開された「緋色の弾丸」のラストでは、被害者遺族であり証人保護プログラムを使ったジョディが、同じ過去を持つ犯人に啖呵を切る。犯人のように自分の運命を憎むのか、ジョディのように真実に立ち向かうのか。悲しくも際立った両者のコントラストが印象的だった。

「緋色の弾丸」が本来公開される予定だったのは2020年4月。作品が作られた時にはコロナの騒動など予想がつかなかったはずだ。
つまり「緋色の弾丸」と「ハロウィンの花嫁」の間にはコロナ禍という世界的に大きなターニングポイントがあった。コナンという長寿コンテンツも、その影響を(興行面以外でも)受けざるを得なかったのだと思う。

劇場版といえば、作品ごとに焦点の当たるキャラクターとコナンの対決や協力関係を楽しむのがお約束だった。しかし「ハロウィンの花嫁」はその点がこれまでと大きく違った。江戸川コナンを主軸とした「群像劇」だったのだ。
そして毎回変わる豪華な舞台が「渋谷」という街になったことで、「日常」と「喪失」という普遍的なテーマを持った作品になったと感じる。

松田は萩原を、佐藤は松田を、降谷は親友たちを理不尽に失い、その喪失に日々向き合っている。彼らと同じ「喪失」を抱えたエレニカは、真逆の復讐を目論む。
これが「緋色の弾丸」であればエレニカの復讐は成し遂げられ、ジョディのように断罪する存在が現れただろう。

「ハロウィンの花嫁」でエレニカが銃を向けた時、コナンはエレニカを抱きしめる。エレニカは自分に起きた理不尽を叫びながら、大粒の涙を流す。
コナンが誰かを抱きしめるという行為も、エレニカの大粒の涙も、これまでなかった描写だと思う(コナンが抱きつかれる描写はあったが、コナンは立場上抱き返すことができない)。

個人的には、このワンシーンから鬼滅で描いているものを彷彿とさせられた。理不尽に鬼になってしまった存在を哀れみ、許容しようとする炭治郎の視線だ。あの大粒の涙も鬼滅らしさを感じる。

極めて異例な描写だったが、コナンの行動原理からは逸脱していないし、何より高山さんのお芝居が素晴らしかった。江戸川コナンがエレニカを抱きしめるという行為に、嘘がなかった。

結果、コナンは起こり得た殺人を止め、渋谷を火の海にすることを防ぐ。

噴出ベルトのシーンは少年探偵団の見せ場だが、これまでと違うのは子どもたちだけで成し遂げるのではなく、大人が手を貸すということ。そして、名曲「キミがいれば」をバックに大人たちが協力し合うシーンで交わされる会話はロシア語だった。

コナンはエンタメ作品なので他意は全くないはずだが、いろんなことを考えさせられて少し泣きそうになってしまった。


「時計じかけの摩天楼」の犯人はバブル崩壊で建築予算がなくなったため、予定していた建物の設計変更を余儀なくされ、連続爆破事件を起こす。以降、コナン映画は豪華な舞台をいかに派手に爆破させるか、といった見せ場的な意味合いもあって、実在するマリーナベイ・サンズまでをも壊すところまで到達した。
そして「緋色の弾丸」で架空のオリンピック会場にリニアモーターカーを激突させ、現実世界のオリンピックも延期となった。
もう、これ以上劇場版で壊せるものなんてないのだと思う。

時代に合わずバブリーな舞台を提供し続けてくれた劇場版が、このタイミングで地に足のついた「日常」に目を向けてくれたことに嬉しさと少しばかりの寂しさを感じてしまうのは古参ファンの性だ。しかし、どんなに時代が変わっても、コナンの精神性は変わらない。

名探偵コナンは、お調子者の高校生が当たり前の日常を突然失い、取り戻すまでの物語だ。私たちがコロナで体感するずっと前から、コナンは理不尽により日常を喪失していた。そして、救えず後悔した命がいくつもあった。

主題歌のクロノスタシスには「僕は僕をどう救える」という歌詞がある。エレニカを抱きしめることで、コナン自身もまた救われたのだろう。

 

今作から、劇場版は新たなフェーズに入った。「緋色の弾丸」で被害者遺族が犯した罪を、「ハロウィンの花嫁」では未然に防いだ。断罪ではなく、優しさによって。

喪失の痛みが溢れる世界に、名探偵コナンという長寿コンテンツはどう向き合うのか。「ハロウィンの花嫁」は国民的アニメの誇りと責任を感じさせる作品だった。

いつの時代も傘を差し伸べてくれる江戸川コナンに、これからもついていきたい。

2020.12.31

 

台風ジェネレーション」の大野さんのソロを聞いたとき、私は猛烈に実感してしまった。

これは、限りなく「失恋」に近い感情だと。

 

いい歳の大人が国民的アイドルに向かって「失恋」なんて言葉を使うのは痛々しいにも程がある、と私も思う。

だけど、嵐は不思議とファンとの相思相愛が成り立ってしまうようなグループだった。

そして、本当に心から愛されていたのは、私の方だった。

 

9月、初めて行ったFREESTYLEでたくさんの作品を見て、大野さんが創作のためにかけてきた時間と熱意を感じた。

絵のことは良く分からないけど、画材一つにしても、いろいろ試して使い方を自分のものにしてからでないと描けない、そんな作品ばかりだったと思う。

 

それからの4ヶ月、どうしたら感謝の思いが伝えられるだろうとずっと考えていた。

作品集のインタビューやVoyageのOHNO's Diaryと、彼の生の声を見聞きする度に、その思いは強くなった。

 

別に私の思いなんて本人には必要ないだろうけど、ここまでファンのために尽くしてきた彼に、何ができるんだろうと結構本気で悩んでいた。

でも、私のたった4ヶ月の浅はかな考えでは太刀打ちできそうな案が見つからないまま、12月31日を迎えてしまった。

 

節目の挨拶ではいつも涙を見せていた大野さんは、活動休止前の最終日、ファンに涙を見せなかった。

歌もダンスも完璧に仕上げてきて、あまりの完成度の高さに私は泣いた。

二度と歌って踊る姿を見れないかもしれない。

大野さん自身がそれをよく分かっていたのだと思う。

ファン思いで完璧主義な、最高のアイドルだった。

 

私のファン歴は社会人歴と同じなので、ある意味人生で一番変化の大きい数年を嵐とともに過ごしてきた。

はじめはそこまでヘビーなファンではなかったはずなのに、この2年は重くならざるを得なかった。

活動休止を迎えたら、もっと引きずるものだと思っていたけど、こんな湿っぽい文章を書きながらも、私の気持ちは案外落ち着いている。

12月31日に、全部を置いてきてしまった気がする。

 

だけど、もしかすると、大好きな存在との永遠の別れかもしれないので、やっぱりこれは「失恋」と呼ぶしかないらしい。

 

 

 

君に出逢った 君に恋した

この体の奥に ずっと

君と見つめていた 景色がいつでも

流れている

 

 

ボーイ・ミーツ・ガール/ガール・ミーツ・ボーイズ

原作漫画の実写化として公開された映画「私がモテてどうすんだ」。青春ラブコメのご都合主義も、邦画ミュージカルにありがちな踊ることの理由の薄さも苦手だったので、正直期待していなかった。が、蓋を開けてみれば予想外の傑作だった。

 

全体的に、漫画を実写化する意味付けがしっかりとなされていたように思う。突拍子もない展開に「漫画じゃないんだから」と作中で突っ込んでいく。見せ場でもあるミュージカルシーンでは「作り話」であることを主張するように、2人の花依が同じ画面内に登場する。

漫画やアニメの中で同じことをすると、あまりにメタ的で自虐っぽくなってしまうが、実写では意味合いが変わってくる。2次元を愛し、2次元のために生きるヒロインが、実写化により「本当」の意味で現実世界に迷いこんでしまうのだ。

 

さらに前提として、六見先輩以外の男子と花依の間にはスクールカースト的断絶がある。主題歌では、花依に対する周りの態度の変化について、明確に書かれている。サビの「なにレベル分けして変えてんの?」という歌詞は、特に皮肉で強烈だ。

男子4人と花依は、次元的にも階級的にも「生きてる世界」が違う。その舞台がSFでもおとぎ話でもなく、現実世界の高校というのが面白い(劇中劇のおとぎ話とだぶらせているのも上手い)。違う界層に生きる男女が、見た目の変化で初めて相手を認識する。王道の「ボーイ・ミーツ・ガール」の文脈であり、花依からすれば「ガール・ミーツ・ボーイズ」でもある。そして、出会った相手はそのまま「世界」に置き換えることができる。

困惑する花依の心情は、ポップな主題歌で表現される。突然モテてしまう展開に歌い踊るしかない、という演出はミュージカルそのものだし、映画としても無理がない。そして、デートに誘う男子たちには花依のダンスが見えていない。ベタだけど上手い演出だと思う。オープニング時点の花依と男子4人は、完全に世界観が噛み合っていないのだ。

 

見た目の変化を人間性の変化として描く作品は山ほどある。だか、私モテは「見た目」と「人間性」を完全に切り離して作られていた。花依は自分の見た目の変化になんの感慨もない。花依にとっての衝撃は、傍観者であった自分が恋愛の当事者になってしまったことだけだ。彼女にとってはBLを愛することこそが生き甲斐で、恋愛など人生に必要ないのだ。ラブコメを謳った作品としては、画期的なヒロインだと思う。

反対に六見先輩を除く男子たちは、ステレオタイプな考え方の持ち主だ。花依に対しても「普通の女子」のイメージを当てはめようとするが、悉く失敗する。彼らの想像の範疇に収まりきらない花依だが、彼女を理解しようと躍起になるうちに、男子たちは内面にも惹かれていく。

 

結局、私モテのテーマは異文化コミュニケーションなんだと思う。異なる価値観の人間が出会って、お互いを理解しようと努力するけれど、作中では結論付けられずに終わる。原作では一人を選ぶようだが、映画ではその結末をあえて採用しなかった、というのもポイントが高い。

 

ルッキズム、オタク、BL、腐女子。ちょっとでも間違うとクレーム案件になりかねないテーマだ。それなのに、私個人は嫌な気分になるシーンが一切なかった。制作側の配慮が行き届いていたし、説教臭くもならない絶妙なバランスで成り立った奇跡的な映画だと思う。問題になりそうなシーンに対してのアンサーが、しっかり用意されていた。

私自身がいい歳のオタクなので「オタクを卒業して恋愛して、現実世界に生きましょう」という結末だったら、間違いなく受け入れられなかっただろう。オタクにとっての「好き」の対象は、辛い現実世界を生き抜くためのエネルギー源だ。それに外から口出しするのは、人格否定と言ってもいい。

主題歌には「FU FU GiRL」という歌詞があるが、これはそのまま「腐女子」の意味だし、花依は腐女子である自らを「情熱で生きてんの」と全肯定する。そして、男子たちが変えようとしたのは花依の外見であって、彼女のアイデンティティである「腐女子」の部分ではなかった。

 

そもそもBLは、女性が美醜で価値を決められる世の中から逃れるために発展した側面があると思う。劇中劇で豚になってしまうお姫様が「花依」にも「妄想の王子様」にもなり得るというのは、このテーマの本質をついていて思わず唸ってしまう。

 

現実世界で生きるのって本当にしんどい。現実世界には生身の人間しかいないだからだ。裏切られることも、誰かを意図せず傷つけてしまうこともある。
(琴葉先輩の「2次元の男はあなたを裏切らなかったでしょうね」という台詞がいい味を出している。)

しんどいからこそ、イケメンには素敵な恋人が、オタクには2次元が必要だったりする。どっちがいい悪いではなく、好きなものは大切にしないとね、という全てに対する肯定に、年甲斐もなく感動してしまった。

 

オープニングでは花依のダンスが見えていなかった男子たちも、エンディングでは花依と一緒に舞台で踊る。しかも、美人な花依だけではなく、ぽっちゃりした花依のこともきちんと認識している。互いに相手のことを理解しようとした結果のようで、感慨深い。

「好きなものを好きでいること」「人が好きなものを知ろうとすること」は、現実世界に彩りをもたらす。誰のことも否定しない、こんなにハッピーな映画は、閉塞感のある今だからこそ万人に見てほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……ところであのラスト、琴葉先輩はNGで七島くんはOKな五十嵐くん、凄くない?

 

海うそ 梨木香歩

気分転換のつもりで図書館で小説を借りてきた。 

中学生ごろまでは自分も本の虫のような子どもだったのだけど、忙しくなるのにつれ、まったく本を読まなくなってしまった。

最近になって気付いたのだが、自分は「小説」が好きなのではなくて、「児童文学」というジャンルが好きだったらしい。 

「児童文学」好きな元・本の虫としては、同じような空気感の感じられる本を読みたかった。

そこで目に留まったのが、梨木香歩さんの「海うそ」だった。

 

海うそ

海うそ

 

 

梨木さんといえば児童文学の「西の魔女が死んだ」が有名だ。

自分も中学生のころに読んだ記憶がある、が正直ちゃんと中身を覚えていない。

ただ、「魔女」というファンタジーな単語が使われている割に、内容そのものは妙に現実的、写実的な話だったように記憶している。

「海うそ」も、本質的には「西の魔女」と同じようなテイストの物語といえる。

 

昭和のはじめの南九州の島を舞台に、人文地理学者の主人公が時代の変遷の中でかき消されてしまった修験道の聖地の痕跡を巡っていく。 

ある時代では当たり前に存在していたものが、ある日突然、当たり前ではなくなる。

主人公は過去の時代に、自らの人生の「喪失」を重ねていく。

 

主人公は他の人間にあまり自らのことを語らないので、登場人物同士の心の通い合い、という描写はあまりない。

それでも、島の歴史と大自然を前に圧倒されるという共通の「時間」そのものに、非常に意味があるように思う。

寂しい物語ではあるが、「喪失」の空しさに向き合った果てには、「何もない」という美しさがある。

2019.12.31

5×20のMV集を買ってから嵐のことをずっと文章にまとめたいと思っていたんだけど、10月のYouTube解禁からニュースが多すぎて気持ちがとっちらかったまま、新年を迎えようとしている。このままではいろんな感想が嵐の勢いに流れてしまいそうなので、ここらでいろいろな雑感をまとめてみた。以下の3本立て。完全に自己満足です。

 

・5×20MV集 雑感
・My bestシングル&パフォーマンスランキング
・活動休止に向けて


●5×20MV集 雑感
改めて感じたけど、嵐の最大の魅力はやっぱりユニゾンの綺麗さだと思う。これは結成時のメインボーカル大野さんの声にメンバーが寄せていった結果だろうけど、さらに言えば大野さん一人じゃなく、ラップの翔さんとの2トップという形がデビュー曲から確立されていて、はじめからセンターが存在しなかった、というのがとても大きい。メインボーカルがすごくいい意味で「目立たない」ユニゾンの綺麗さ。
嵐においてセンターがいない、というのは、メンバー全員がセンターになれる力量があるのは勿論だけど、それ以上にセンターを邪魔しないパフォーマンスができる背景力の高さの裏返しだと思っている。アイドルという目立ってなんぼの仕事をしながら、ここまでの統一感を出せる嵐は、やっぱり稀有な存在だ。


●My bestシングル&パフォーマンスランキング
サブスク解禁してからシングル曲を病気のように聞きまくっている。もともとシングルよりコンセプトのしっかりしたアルバム曲が大好きなんだけど、シングル曲のプレイリストを作っているうちに、自分の中でのランキングが気になりはじめた。しかし、曲だけでランキングつけるのが難しすぎたので、お気に入りのパフォーマンス込みで5位までランク付けしてみました。あくまで暫定で、順位は気分で変わります。

 

1位 Step and Go/ARASHI BLAST in Hawaii
夕焼け空の美しさと寂しさが、卒業を思わせる曲にマッチしてとても綺麗。歌詞通り「愛しさ溢れて光キラリ」と輝く大野さんの歌声が、空に溶けていく様で頭から離れない。

 

2位 Believe/THE MUSIC DAY(2017.7.2放送)
普段疲れた様子をあんまり見せない翔さんだけど、長時間の生放送で疲れていたのかラップの出だしが珍しく不安定でちょっとびっくりした。「頭上に悠然とはためく~」からはしっかり持ち直して、その時の目力の強さが印象的だったんだけど、今思えば彼の中でいろんな感情が巡っていたんだろうな。最後の最後で笑う翔さんも最高だった。活動休止の発表を聞いて一番最初に思い出したパフォーマンス。

 

3位 truth/MV
完全に「魔王」案件。限りなく成瀬領に近い大野智(28)を映像として後世に残してくれてありがとう。このMVを見るたびに、大野さんに対する気持ちの重力が増す。ブラックホールになるのも時間の問題。

 

4位 Endless Game/ドラマ「家族ゲーム」エンディング
ちょうど嵐を勉強し始めた頃に放送していたのが家族ゲーム。パフォーマンスももちろんよいのだけど、楽曲だけでも十分好き。EDで流れた風変わりで攻めてる曲調そのものが、当時の自分には衝撃的だった。「今の嵐ってこういう曲歌ってるんだ」という、彼らを好きになる一発目のフック。

 

5位 Sakura/MUSIC STATION (2015.2.20放送)
初披露となったMステでのパフォーマンス。嵐の代名詞(と私が勝手に思っている)、展開の早いフォーメーションダンスが印象的なHIDALIさんの振付。嵐の振付では一番好きかもしれない。黒い衣装に「吹雪」というより「雪崩」な桜がよく映える。

 

とりあえず、トップ5はこんなところ。ちなみに6位以下は下記の通り。大野さんへの偏りが強めなラインナップ。

 

6位 Face Down
MV、踊ってないのに異様にかっこよすぎてびびった。

 

7位 つなぐ
大野さんらしい振付。Sakuraの次に好きかも。間奏の5人で円になるところと、ラップで一人ずつ加わってからの大野さんが最高。

 

8位 I'll be there
アレンジがとにかく良い。冒頭のピアノからインパクトのあるブラスへの切り替えがかっこいい。

 

9位 誰も知らない
10位 Monster
大野担としてはこの2曲は外せない。

 

嵐は曲数が多すぎるので、他にも好きな曲は山ほどあるし、順位も変わりますが、2019年12月31日現在のランキングと言うことで。
以上、シングル曲ランキングでした。


●活動休止に向けて
今日が12月31日ということは、嵐の活動休止まで丸1年ということで。1年後には「嵐」として活動する姿が見れなくなってしまうと思うと、やっぱり不安な気持ちが拭えない。
ただ、1月の会見の後は「残り2年」を終活のために費やさなきゃいけないと思っていたけど、嵐はそれをきっぱりと否定した。

SNSやらドキュメンタリーやらリプロダクトやら、今の嵐がやっていること、やろうとしていることはファンに「求められて」やったものではなく、純粋に嵐が「やりたくて」進めているものだ。
私も、アイドルとはファンに求められていることをやるちょっと受け身とも言えるような職業だと昔は思っていた。
だけど、嵐はその定義に収まりきる器じゃなかった。
嵐自身が「嵐」でいること、「嵐」になることに一番自覚的で、だからこそ尖った曲もやるし、新しいことにもどんどん挑戦していける。
A-RA-SHI:Rebornを聞いて、彼らは嵐として人に「夢を与える」というよりは、嵐という「夢」そのものになろうとしているんだなと気づいた。
メンバー5人が、誰よりも「嵐」の可能性を信じているんだから、かっこよくない訳がない。

5×20オーラスでの演説のような翔さんの言葉に、私は覚悟を決めさせられた。「言葉」だけであんなに心を揺さぶられたのは、はじめての経験だったかもしれない。たまに涙は出るかもしれないけど、それでも歯を食いしばってもついていかなきゃいけない。「私」がいなきゃ、「まだ見ぬ世界」にたどり着けないから。

嵐の歌詞には「笑って泣いて」という表現が多いように思う。泣くことを否定せず、悲しみにもちゃんと向き合える嵐が私は好きだ。
だから、私も1年後に後悔しないよう、しっかり嵐に向き合いたいと思う。