ひとりごと

思ったこと考えたことあれこれ。

2020.12.31

 

台風ジェネレーション」の大野さんのソロを聞いたとき、私は猛烈に実感してしまった。

これは、限りなく「失恋」に近い感情だと。

 

いい歳の大人が国民的アイドルに向かって「失恋」なんて言葉を使うのは痛々しいにも程がある、と私も思う。

だけど、嵐は不思議とファンとの相思相愛が成り立ってしまうようなグループだった。

そして、本当に心から愛されていたのは、私の方だった。

 

9月、初めて行ったFREESTYLEでたくさんの作品を見て、大野さんが創作のためにかけてきた時間と熱意を感じた。

絵のことは良く分からないけど、画材一つにしても、いろいろ試して使い方を自分のものにしてからでないと描けない、そんな作品ばかりだったと思う。

 

それからの4ヶ月、どうしたら感謝の思いが伝えられるだろうとずっと考えていた。

作品集のインタビューやVoyageのOHNO's Diaryと、彼の生の声を見聞きする度に、その思いは強くなった。

 

別に私の思いなんて本人には必要ないだろうけど、ここまでファンのために尽くしてきた彼に、何ができるんだろうと結構本気で悩んでいた。

でも、私のたった4ヶ月の浅はかな考えでは太刀打ちできそうな案が見つからないまま、12月31日を迎えてしまった。

 

節目の挨拶ではいつも涙を見せていた大野さんは、活動休止前の最終日、ファンに涙を見せなかった。

歌もダンスも完璧に仕上げてきて、あまりの完成度の高さに私は泣いた。

二度と歌って踊る姿を見れないかもしれない。

大野さん自身がそれをよく分かっていたのだと思う。

ファン思いで完璧主義な、最高のアイドルだった。

 

私のファン歴は社会人歴と同じなので、ある意味人生で一番変化の大きい数年を嵐とともに過ごしてきた。

はじめはそこまでヘビーなファンではなかったはずなのに、この2年は重くならざるを得なかった。

活動休止を迎えたら、もっと引きずるものだと思っていたけど、こんな湿っぽい文章を書きながらも、私の気持ちは案外落ち着いている。

12月31日に、全部を置いてきてしまった気がする。

 

だけど、もしかすると、大好きな存在との永遠の別れかもしれないので、やっぱりこれは「失恋」と呼ぶしかないらしい。

 

 

 

君に出逢った 君に恋した

この体の奥に ずっと

君と見つめていた 景色がいつでも

流れている

 

 

ボーイ・ミーツ・ガール/ガール・ミーツ・ボーイズ

原作漫画の実写化として公開された映画「私がモテてどうすんだ」。青春ラブコメのご都合主義も、邦画ミュージカルにありがちな踊ることの理由の薄さも苦手だったので、正直期待していなかった。が、蓋を開けてみれば予想外の傑作だった。

 

全体的に、漫画を実写化する意味付けがしっかりとなされていたように思う。突拍子もない展開に「漫画じゃないんだから」と作中で突っ込んでいく。見せ場でもあるミュージカルシーンでは「作り話」であることを主張するように、2人の花依が同じ画面内に登場する。

漫画やアニメの中で同じことをすると、あまりにメタ的で自虐っぽくなってしまうが、実写では意味合いが変わってくる。2次元を愛し、2次元のために生きるヒロインが、実写化により「本当」の意味で現実世界に迷いこんでしまうのだ。

 

さらに前提として、六見先輩以外の男子と花依の間にはスクールカースト的断絶がある。主題歌では、花依に対する周りの態度の変化について、明確に書かれている。サビの「なにレベル分けして変えてんの?」という歌詞は、特に皮肉で強烈だ。

男子4人と花依は、次元的にも階級的にも「生きてる世界」が違う。その舞台がSFでもおとぎ話でもなく、現実世界の高校というのが面白い(劇中劇のおとぎ話とだぶらせているのも上手い)。違う界層に生きる男女が、見た目の変化で初めて相手を認識する。王道の「ボーイ・ミーツ・ガール」の文脈であり、花依からすれば「ガール・ミーツ・ボーイズ」でもある。そして、出会った相手はそのまま「世界」に置き換えることができる。

困惑する花依の心情は、ポップな主題歌で表現される。突然モテてしまう展開に歌い踊るしかない、という演出はミュージカルそのものだし、映画としても無理がない。そして、デートに誘う男子たちには花依のダンスが見えていない。ベタだけど上手い演出だと思う。オープニング時点の花依と男子4人は、完全に世界観が噛み合っていないのだ。

 

見た目の変化を人間性の変化として描く作品は山ほどある。だか、私モテは「見た目」と「人間性」を完全に切り離して作られていた。花依は自分の見た目の変化になんの感慨もない。花依にとっての衝撃は、傍観者であった自分が恋愛の当事者になってしまったことだけだ。彼女にとってはBLを愛することこそが生き甲斐で、恋愛など人生に必要ないのだ。ラブコメを謳った作品としては、画期的なヒロインだと思う。

反対に六見先輩を除く男子たちは、ステレオタイプな考え方の持ち主だ。花依に対しても「普通の女子」のイメージを当てはめようとするが、悉く失敗する。彼らの想像の範疇に収まりきらない花依だが、彼女を理解しようと躍起になるうちに、男子たちは内面にも惹かれていく。

 

結局、私モテのテーマは異文化コミュニケーションなんだと思う。異なる価値観の人間が出会って、お互いを理解しようと努力するけれど、作中では結論付けられずに終わる。原作では一人を選ぶようだが、映画ではその結末をあえて採用しなかった、というのもポイントが高い。

 

ルッキズム、オタク、BL、腐女子。ちょっとでも間違うとクレーム案件になりかねないテーマだ。それなのに、私個人は嫌な気分になるシーンが一切なかった。制作側の配慮が行き届いていたし、説教臭くもならない絶妙なバランスで成り立った奇跡的な映画だと思う。問題になりそうなシーンに対してのアンサーが、しっかり用意されていた。

私自身がいい歳のオタクなので「オタクを卒業して恋愛して、現実世界に生きましょう」という結末だったら、間違いなく受け入れられなかっただろう。オタクにとっての「好き」の対象は、辛い現実世界を生き抜くためのエネルギー源だ。それに外から口出しするのは、人格否定と言ってもいい。

主題歌には「FU FU GiRL」という歌詞があるが、これはそのまま「腐女子」の意味だし、花依は腐女子である自らを「情熱で生きてんの」と全肯定する。そして、男子たちが変えようとしたのは花依の外見であって、彼女のアイデンティティである「腐女子」の部分ではなかった。

 

そもそもBLは、女性が美醜で価値を決められる世の中から逃れるために発展した側面があると思う。劇中劇で豚になってしまうお姫様が「花依」にも「妄想の王子様」にもなり得るというのは、このテーマの本質をついていて思わず唸ってしまう。

 

現実世界で生きるのって本当にしんどい。現実世界には生身の人間しかいないだからだ。裏切られることも、誰かを意図せず傷つけてしまうこともある。
(琴葉先輩の「2次元の男はあなたを裏切らなかったでしょうね」という台詞がいい味を出している。)

しんどいからこそ、イケメンには素敵な恋人が、オタクには2次元が必要だったりする。どっちがいい悪いではなく、好きなものは大切にしないとね、という全てに対する肯定に、年甲斐もなく感動してしまった。

 

オープニングでは花依のダンスが見えていなかった男子たちも、エンディングでは花依と一緒に舞台で踊る。しかも、美人な花依だけではなく、ぽっちゃりした花依のこともきちんと認識している。互いに相手のことを理解しようとした結果のようで、感慨深い。

「好きなものを好きでいること」「人が好きなものを知ろうとすること」は、現実世界に彩りをもたらす。誰のことも否定しない、こんなにハッピーな映画は、閉塞感のある今だからこそ万人に見てほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……ところであのラスト、琴葉先輩はNGで七島くんはOKな五十嵐くん、凄くない?

 

海うそ 梨木香歩

気分転換のつもりで図書館で小説を借りてきた。 

中学生ごろまでは自分も本の虫のような子どもだったのだけど、忙しくなるのにつれ、まったく本を読まなくなってしまった。

最近になって気付いたのだが、自分は「小説」が好きなのではなくて、「児童文学」というジャンルが好きだったらしい。 

「児童文学」好きな元・本の虫としては、同じような空気感の感じられる本を読みたかった。

そこで目に留まったのが、梨木香歩さんの「海うそ」だった。

 

海うそ

海うそ

 

 

梨木さんといえば児童文学の「西の魔女が死んだ」が有名だ。

自分も中学生のころに読んだ記憶がある、が正直ちゃんと中身を覚えていない。

ただ、「魔女」というファンタジーな単語が使われている割に、内容そのものは妙に現実的、写実的な話だったように記憶している。

「海うそ」も、本質的には「西の魔女」と同じようなテイストの物語といえる。

 

昭和のはじめの南九州の島を舞台に、人文地理学者の主人公が時代の変遷の中でかき消されてしまった修験道の聖地の痕跡を巡っていく。 

ある時代では当たり前に存在していたものが、ある日突然、当たり前ではなくなる。

主人公は過去の時代に、自らの人生の「喪失」を重ねていく。

 

主人公は他の人間にあまり自らのことを語らないので、登場人物同士の心の通い合い、という描写はあまりない。

それでも、島の歴史と大自然を前に圧倒されるという共通の「時間」そのものに、非常に意味があるように思う。

寂しい物語ではあるが、「喪失」の空しさに向き合った果てには、「何もない」という美しさがある。

2019.12.31

5×20のMV集を買ってから嵐のことをずっと文章にまとめたいと思っていたんだけど、10月のYouTube解禁からニュースが多すぎて気持ちがとっちらかったまま、新年を迎えようとしている。このままではいろんな感想が嵐の勢いに流れてしまいそうなので、ここらでいろいろな雑感をまとめてみた。以下の3本立て。完全に自己満足です。

 

・5×20MV集 雑感
・My bestシングル&パフォーマンスランキング
・活動休止に向けて


●5×20MV集 雑感
改めて感じたけど、嵐の最大の魅力はやっぱりユニゾンの綺麗さだと思う。これは結成時のメインボーカル大野さんの声にメンバーが寄せていった結果だろうけど、さらに言えば大野さん一人じゃなく、ラップの翔さんとの2トップという形がデビュー曲から確立されていて、はじめからセンターが存在しなかった、というのがとても大きい。メインボーカルがすごくいい意味で「目立たない」ユニゾンの綺麗さ。
嵐においてセンターがいない、というのは、メンバー全員がセンターになれる力量があるのは勿論だけど、それ以上にセンターを邪魔しないパフォーマンスができる背景力の高さの裏返しだと思っている。アイドルという目立ってなんぼの仕事をしながら、ここまでの統一感を出せる嵐は、やっぱり稀有な存在だ。


●My bestシングル&パフォーマンスランキング
サブスク解禁してからシングル曲を病気のように聞きまくっている。もともとシングルよりコンセプトのしっかりしたアルバム曲が大好きなんだけど、シングル曲のプレイリストを作っているうちに、自分の中でのランキングが気になりはじめた。しかし、曲だけでランキングつけるのが難しすぎたので、お気に入りのパフォーマンス込みで5位までランク付けしてみました。あくまで暫定で、順位は気分で変わります。

 

1位 Step and Go/ARASHI BLAST in Hawaii
夕焼け空の美しさと寂しさが、卒業を思わせる曲にマッチしてとても綺麗。歌詞通り「愛しさ溢れて光キラリ」と輝く大野さんの歌声が、空に溶けていく様で頭から離れない。

 

2位 Believe/THE MUSIC DAY(2017.7.2放送)
普段疲れた様子をあんまり見せない翔さんだけど、長時間の生放送で疲れていたのかラップの出だしが珍しく不安定でちょっとびっくりした。「頭上に悠然とはためく~」からはしっかり持ち直して、その時の目力の強さが印象的だったんだけど、今思えば彼の中でいろんな感情が巡っていたんだろうな。最後の最後で笑う翔さんも最高だった。活動休止の発表を聞いて一番最初に思い出したパフォーマンス。

 

3位 truth/MV
完全に「魔王」案件。限りなく成瀬領に近い大野智(28)を映像として後世に残してくれてありがとう。このMVを見るたびに、大野さんに対する気持ちの重力が増す。ブラックホールになるのも時間の問題。

 

4位 Endless Game/ドラマ「家族ゲーム」エンディング
ちょうど嵐を勉強し始めた頃に放送していたのが家族ゲーム。パフォーマンスももちろんよいのだけど、楽曲だけでも十分好き。EDで流れた風変わりで攻めてる曲調そのものが、当時の自分には衝撃的だった。「今の嵐ってこういう曲歌ってるんだ」という、彼らを好きになる一発目のフック。

 

5位 Sakura/MUSIC STATION (2015.2.20放送)
初披露となったMステでのパフォーマンス。嵐の代名詞(と私が勝手に思っている)、展開の早いフォーメーションダンスが印象的なHIDALIさんの振付。嵐の振付では一番好きかもしれない。黒い衣装に「吹雪」というより「雪崩」な桜がよく映える。

 

とりあえず、トップ5はこんなところ。ちなみに6位以下は下記の通り。大野さんへの偏りが強めなラインナップ。

 

6位 Face Down
MV、踊ってないのに異様にかっこよすぎてびびった。

 

7位 つなぐ
大野さんらしい振付。Sakuraの次に好きかも。間奏の5人で円になるところと、ラップで一人ずつ加わってからの大野さんが最高。

 

8位 I'll be there
アレンジがとにかく良い。冒頭のピアノからインパクトのあるブラスへの切り替えがかっこいい。

 

9位 誰も知らない
10位 Monster
大野担としてはこの2曲は外せない。

 

嵐は曲数が多すぎるので、他にも好きな曲は山ほどあるし、順位も変わりますが、2019年12月31日現在のランキングと言うことで。
以上、シングル曲ランキングでした。


●活動休止に向けて
今日が12月31日ということは、嵐の活動休止まで丸1年ということで。1年後には「嵐」として活動する姿が見れなくなってしまうと思うと、やっぱり不安な気持ちが拭えない。
ただ、1月の会見の後は「残り2年」を終活のために費やさなきゃいけないと思っていたけど、嵐はそれをきっぱりと否定した。

SNSやらドキュメンタリーやらリプロダクトやら、今の嵐がやっていること、やろうとしていることはファンに「求められて」やったものではなく、純粋に嵐が「やりたくて」進めているものだ。
私も、アイドルとはファンに求められていることをやるちょっと受け身とも言えるような職業だと昔は思っていた。
だけど、嵐はその定義に収まりきる器じゃなかった。
嵐自身が「嵐」でいること、「嵐」になることに一番自覚的で、だからこそ尖った曲もやるし、新しいことにもどんどん挑戦していける。
A-RA-SHI:Rebornを聞いて、彼らは嵐として人に「夢を与える」というよりは、嵐という「夢」そのものになろうとしているんだなと気づいた。
メンバー5人が、誰よりも「嵐」の可能性を信じているんだから、かっこよくない訳がない。

5×20オーラスでの演説のような翔さんの言葉に、私は覚悟を決めさせられた。「言葉」だけであんなに心を揺さぶられたのは、はじめての経験だったかもしれない。たまに涙は出るかもしれないけど、それでも歯を食いしばってもついていかなきゃいけない。「私」がいなきゃ、「まだ見ぬ世界」にたどり着けないから。

嵐の歌詞には「笑って泣いて」という表現が多いように思う。泣くことを否定せず、悲しみにもちゃんと向き合える嵐が私は好きだ。
だから、私も1年後に後悔しないよう、しっかり嵐に向き合いたいと思う。

その夢は いつまでも忘れないで

2016年11月17日に放送を開始したアニメ「ポケットモンスター サン&ムーン」シリーズが、今週末に終了する。アニポケは無印世代で、ダイパまでは妹弟たちとそれなりに見てきた。XY&Zの途中から再視聴をはじめたが、長いアニポケ人生でほとんど全話欠かさず見ることができたのは今シリーズがはじめて。仕事に終われて見逃した回も、Amazonプライムで見ることができるので、テレビにかじりついて見ていたあの頃を思い返すと便利な時代だなと思う。

サン&ムーンはアニポケの中でも異色作だった。無印からXY&Zまで、サトシの旅は一連の流れとして続いていた。しかし今シリーズはXY&Zとの明確な繋がりはなく、マサラタウンで暮らすサトシがアローラ旅行に来るところからはじまる。サトシは旅行先でポケモンスクールの存在を知り、自分も学びたいとククイ博士の家でホームステイすることになる。

アローラで「旅」というポケモンの定型からはみ出したサトシとピカチュウは、とても自由に見えた。仲間を増やし、ジム戦に挑み、リーグ優勝を目指すという過去シリーズの一連の流れは、無意識にも主人公に「成長」を義務付ける。成長したベテランを待つのは、挫折やスランプという「大人」ならではの問題だった。

しかし、シリーズがいくら長く続こうが、彼は10才の少年だ。公式がメイン視聴者を子どもと設定する限り、時代が変わっても、サトシは子どもたちに親しみやすさを感じさせるキャラクターでなければいけない。サン&ムーンは冨安監督の下、特に意識して「子ども向け」という視点に立ち返ったシリーズだった。まず、キャラクターデザインがシンプルで緩やかな親しみやすいタッチに変わり、ギャグやパロディをふんだんに取り入れ、ほのぼのとした日常回が多く描かれた。
また、従来のシリーズよりもポケモンを動物らしく扱っていて、サトシのピカチュウも「ピカピ(サトシ)」や「ピッピカチュウ(ゲットだぜ)」と言ったお馴染みのピカチュウ語を使わない。長年慣れていたこともあり、はじめは物足りなさを感じていたが、ピカチュウがサトシの言葉を理解する、しないの加減が絶妙で、その新鮮さも楽しみの一つだった。

「子どもらしいサトシ」「シンプルなキャラデザ」「ギャグ&パロディ推し」「言葉を理解しすぎないポケモン」という特色は、私と同世代であれば無印との共通点を思い浮かべることができると思う。時代も違えばスタッフも変わっているので、描き方に差はあるが、無印アニポケのコンセプトを「少年時代へのノスタルジー」とし、子どもに寄り添った物語を意識した首藤さんの考えに近いものを感じていた。

サン&ムーン編開始の半年後に公開された劇場版は、無印シリーズを元とした「キミにきめた!」だった。無印世代にとっては二つの意味で「少年時代へのノスタルジー」を感じてしまう作品であり、青文字の「ポケットモンスター」というタイトルの記念すべき1作目となった。
サン&ムーン本編とキミきめは直接の繋がりはなく、パラレルワールドのような関係だか、両者に意識して描かれていることはとても似ている。一つは前述の「子ども向け」の視点、もう一つは湯山監督の言う「ポケモンネイティブ」への視点だ。

子どもの頃からポケモンという存在を身近に感じながら育ったポケモンネイティブも20代、30代となり、立派な親世代となった。ポケモンの成長を支えてきた彼らが、自分の子どもとアニポケを楽しんでくれるためには……ということを冨安監督は常に考えてきたのではないだろうか。

サン&ムーンと無印の類時点については述べてきたが、大きな相違点がひとつある。それは「大人の描き方」だ。
無印に登場する大人は、頭が固くて下らないことで揉めたり、人を貶めたりと意地の悪いキャラクターが多い(思い付くのは「たいけつ!ポケモンジム」でストライクとエレブーを戦わせるジムリーダーとか、「アオプルコのきゅうじつ」のおばばとか)。第1話に関してはハナコママもオーキド博士も、これから命懸けの旅に出るサトシに対してわりと淡白だったりする。こうした描き方は「子どもの気持ちは子どもにしかわからない」という、首藤さんらしい線引きのように感じる。だが、首藤さんが作ったポケモン世界の魅力は凄まじく、結果としては「ポケットにファンタジー」のような大人が私を含め、たくさんいる。

そんなポケモンネイティブを肯定してくれるのが、ククイルザミーネというキャラクターだ。
サン、ムーンの原作ゲームのテーマは「家族」だと聞くが、それはアニポケにも通じている。
ククイとサトシのやりとりは、本当の親子でなくとも家族のようだし、反対に血の繋がった親子であるにも関わらず、良好でなかったルザミーネグラジオ、リーリエの関係も面白かった。特に、今作の悪役となるはずだったルザミーネの改編は、個人的にはとてもよい判断だったと思う。ククイルザミーネポケモンのことが大好きで、サトシと同じように夢に向かって懸命に取り組んできた。その過程でククイグズマと仲違いし、ルザミーネは家族を省みれず子どもたちに孤独感を抱かせてしまう。真の悪役がいないからこその日常のすれ違いのリアルさが、他のシリーズにはない魅力だった。

細かい部分の話をすると、日常生活の場面が増えたことでサトシが家事に挑戦するシーンが見れたのも嬉しかった。無印~は保護者としてのタケシがいたし、XYではサトシにベテラン感がありすぎて、家事を手伝わない父親のように見えてしまうのが辛かった。
最初ククイは独身で、途中でバーネットと結婚する、という流れも良かったと思う。結婚前にバーネットが家に来て家事をしようとした時に、ククイが「家事をしてもらうなんてとんでもない!」といった発言をしたことに、妙に感動したのを覚えている。家事は特別なことではないし、サトシも苦手だからやらないのではなく、苦手なりに前向きに取り組む姿勢が見ていて気持ち良かった。

主人公サトシの物語として見ると、少し物足りない部分はあったかもしれない。何せ、主人公が困難にぶち当たることがあまりない。問題が起きても、持ち前の明るさと機転の早さで乗り越えてしまうのだ。
サン&ムーンのサトシは少なくともカントージョウトを旅しているし、バトルの経験も豊富で、精神的に追い詰められる場面もない。サトシ自身が「成長」することを義務付けられなかったはじめてのシリーズとも言える。過去最高の状況でリーグ戦に出場できたのだから、優勝も当然だ。

ただ、ククイとのエキシビション・マッチの結果は、正直予想ができなかった。サトシにとってのククイは、先生であり、親であり、大切な家族だ。一方、ククイにとってのサトシは家族であることはもちろん、バトルの楽しさを教えてくれた相手であり、憧れ、目標のような存在だったのだと思う。3年間、一緒に生活しながらも一度もバトルしたことのなかった両者のバトルは、どちらが勝っても感動的だったはずだ。
今回、サトシが勝ったのは何故か。ククイポケモンネイティブを体現したキャラクターだったからだ。子どもの頃にサトシに憧れ、ポケモンと共に成長し、大人になってもう一度サトシと真っ向勝負したいと全力で戦い、もう一度負けて、またサトシに憧れる。こんな幸せなことはないと思う。

サン&ムーンの第1話でカプ・コケコにZリングをもらった時から、サトシはこれまでの挑戦者としての立場以上に、アローラの救世主としての役割が強かったのかもしれない。サトシが自然体のまま救世主として活躍できたのは、20年以上の旅の経験があってこそだし、旅の途中で巡り会えた大勢の子どもたちが今もなお、サトシに憧れて応援しているからだ。そして、このサン&ムーンでポケモンネイティブになった子どもたちが大人になる時代が待ってるのなら、意外に未来は暗くないかも、と思ったり。

個人的には最高傑作だったサン&ムーンシリーズ。この年齢で最後まで完走できたのは奇跡かもしれない。シリーズの終わりはいつだって寂しいけど、サトシの途方もない夢の先をいつまでも見ていたい。
2回目の「ポケットモンスター」、楽しみにしてます。

「アンディ」という呪縛

トイ・ストーリー4に関しては、予告の段階からウッディが「おもちゃとして子供の側にいる」以外の選択をするんじゃないかと話題になっていたし、公開後も「そうなんだろうな」と思える感想ばかり見かけたので、ストーリーについては予想の範囲内だった。

範囲外だったのは、アンディという過去の存在にがんじがらめにされた今のウッディ。冒頭のアンディとの思い出から、悲しくて、愛しくて、涙が止まらなかった。
見終わってからも「アンディのおもちゃだからだ」というウッディの過去のセリフを、繰り返し思い出している。

トイ・ストーリー」シリーズはウッディとアンディの物語だった。完璧なはずの二人の関係を脅かす存在として、バズが現れるところからシリーズが始まる。
2では、持ち主に捨てられた経験を持つジェシーが登場。いつかはアンディが離れていく未来を予感しながらも、ウッディはアンディの側にいる選択をする。
そして3では、遂にアンディとの別れが訪れる。アンディとボニーがウッディたちと遊ぶ最後のシーンを見て、トイ・ストーリーは完璧なラストを迎えた(と思った)。

ウッディはボニーの元で第2の人生を幸せに送っているんだと、誰もが思ったことだろう。だけどそんなのは私たちの幻想なんだよ、とディズニー(ピクサー)は突き付けてきた。

1からウッディが一番恐れていた事が現実になってしまったのがこの4作目だった。
「誰かの一番」を知っているウッディは、バズを蹴落とそうとし、捨てられる前に逃げようか迷い、最後は自分でアンディから離れる決意をする。それはおもちゃを大切にし、アンディのように遊んでくれるボニーがいたからこその決断だったはずだ。
ウッディがボニーのお気に入りになれなかったのは仕方のないことで、ボニーに悪意がないからこそ辛い。

ウッディは誰よりもアンディの事を大切に思っていたし、ボニーに対しても同じように尽くそうとしていた。
しかし、ウッディにとっての「子供」はアンディただ一人だったということが、アンディとの別れを経てから気づいてしまうという残酷さ。

今作を受け入れられない人の気持ちもよく分かる。2で絶望していたジェシーと同じように、新しい持ち主の元で幸せに過ごすウッディを、私も見たかった。
でも、2で「アンディは成長する」という設定を組み込んだ時点で、3そして4の過程は避けられなかったように思える。

私が4をすんなり受け入れられたのは、ウッディの言動全てに現れた、アンディへの消えない思いが実に丁寧に描かれていたからだ。
アンディとの幸せな思い出があるからこそ、ウッディはフォーキーにおもちゃとしての意識を持たせ、ギャビー・ギャビーにボイスボックスを、ジェシーに保安官のバッヂを譲り渡した。
そして、アンディのおもちゃたちのリーダーという立ち位置を外れてはじめて、ウッディは「アンディ」という呪縛から逃れられたのではないか。

作中に登場するアンディは、全て過去の回想だった。壊れない限り、永遠の命を持つおもちゃにとって、持ち主との別れは死別と同義だったのだ。
そして、今作はウッディが思い出の中のアンディと別れるための、お葬式のようなセレモニー的作品だったのではないか。

ウッディの未来は白紙だ。また新しい持ち主が見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。思いがけず、大人になったアンディと出会うこともあるかもしれない。
持ち主の元を離れてもなお、「子供と遊ぶ事が何よりの喜び」だと理解しているウッディに私は安心した。また気が向いたら、子供と一緒に遊んでくれたらいいなと思う。

「自由」と「権力」はイコールなのか?

アラジン、いい意見も悪い意見も聞いていたのでどんな感想を抱くか予想できなかったけど、個人的には大満足だった。

実写リメイクをどうとらえるかは人によって違うので難しいところだけど、私は原作と同じことをしても意味がないと思っているし、やるなら原作を越えなければいけないと思うので、アニメを踏襲しつつ、いろんなアレンジを加えるさじ加減が良かったと思う。
美女と野獣」はリメイクとしては物足りなかったので、今作はその鬱憤を晴らしてくれた。
アグラバーの町並みや衣装の美しさは、実写ならではの良さがあって飽きなかったし、もう一度見たいと思う。

概ね自分の中ではあるものの、気になった点があったので、その部分について敢えて書いてみる。


今回の実写はスルタンになりたいジャスミンに注目が集まりがちだけど、同時にアラジンの立ち位置もかなり変化している。

酷い暮らしをしている主人公が魔法の力を借りて王族と結婚する、という筋書きから、私はアラジンは男女逆転版シンデレラだと考えていて、アニメの製作陣もきっとそれを意識していたと思う。
ただ、シンデレラは元々はいいお家の娘で、いじめられてはいるものの、そこまで身分は問題になっていない。シンデレラは舞踏会に行く権利があるし、不当に剥奪された権利を取り戻すためにフェアリー・ゴッドマザーが現れる。
一方アラジンは法律で王女の結婚相手は王子と決められており、最初からアラジンにジャスミンと結婚する権利はない。完全に身分違いの恋である。

実写版はジャスミンもアラジンに自分の身分を隠す時間が長い。アニメではジャスミンのせいでアラジンが処刑されてしまう下りがあるので、彼女も後悔するのだけど、今回のジャスミンは身分を隠したことを深刻に考えていないように見えた。
アラジンが王子だと言い張る嘘と、ジャスミンが侍女だと言い張る嘘は、魔法を使って高い身分となったアラジンだけが悪いのだろうか。

結局、ジャスミンが女性初のスルタンになるというのは、ジャスミンがプリンス・チャーミングになる事と同義だと思う。王子は国王になることを約束され、自分で結婚したい人を自由に選ぶことができる。国中の女性にガラスの靴を履かせてシンデレラを探すことに、誰も異義は唱えない。
スルタンとなったジャスミンは、元の世界に戻ろうとするアラジンを連れ戻しに行く。権力を手にし、すべてを正当化することができる存在となる。
そして正体が明らかとなり、城を後にするアラジンの姿は、シンデレラとしての立ち位置を完全に確立したように思える。

ジャスミンは聡明で、権力を悪用する訳はないんだけど、この作品で重要な「自由」という願いが、権力で解決されてしまうのはちょっと惜しい気がする。

例えば、ジャスミンがすべてを捨ててもアラジンと一緒にいたいと思ったなら、城から抜け出してアラジンと駆け落ちすることもできたのではないか。
例えば、本当の自由のために、スルタンとなったジャスミンが王政を廃止して、アグラバーを民主的な町にするところまで描けたら良かったのではないか。

何も持たないアラジンに対して、今作のジャスミンはあらゆるものを持っているように感じてしまう。
ジャスミンやプリンス・チャーミングを、悪者として捉えたいという意図は全くないのだけど、果たしてジャスミンがプリンス・チャーミングになることが女性の地位向上なのだろうか。

正直なところ、今作でもっとスポットを当てるべきは「女性」よりも「格差」だったのではないかと思っている。アラジンとジャファーを似た設定にするなら、尚更そうすべきだったと思う。なぜなら、アラジンが王子の振りをし、ジャファーが権力に固執した理由が「格差」だったから。
ジャスミンは女性ということでスルタンになれず、抑圧された存在であることは間違いない。だが、それでも王女だ。生きていく為に盗みをするしかないアラジンの方がよっぽど抑圧されている。
スルタンになりたいという王女かいることは悪いことではない。ただ、タイトルロールの主人公が王女の活躍に割を食ってしまった感は否めない。しかも、ディズニーで人間の男性が主人公になる数少ない作品であるにも関わらずだ。

アナ雪もそうだけど、女性vs男性という構図をこのまま続けていくのは、あまり良い戦略とは思えない。女性が強くなるとこで男性にアラジンのような我慢を強いるのも、ちょっと違うように感じる。

ただ、原作アニメ公開から25年以上過ぎた今でも、ランプの魔神や空飛ぶ絨毯より、架空の中東の国でスルタンを名乗る女性が登場することが、この作品における一番のファンタジーのように思えて、それはそれで複雑な気持ちになる自分がいる。
今作のジャスミン像に、長年女性の描き方に悩み続けてきたディズニーの苦悩を垣間見るような気がした。