ひとりごと

思ったこと考えたことあれこれ。

その夢は いつまでも忘れないで

2016年11月17日に放送を開始したアニメ「ポケットモンスター サン&ムーン」シリーズが、今週末に終了する。アニポケは無印世代で、ダイパまでは妹弟たちとそれなりに見てきた。XY&Zの途中から再視聴をはじめたが、長いアニポケ人生でほとんど全話欠かさず見ることができたのは今シリーズがはじめて。仕事に終われて見逃した回も、Amazonプライムで見ることができるので、テレビにかじりついて見ていたあの頃を思い返すと便利な時代だなと思う。

サン&ムーンはアニポケの中でも異色作だった。無印からXY&Zまで、サトシの旅は一連の流れとして続いていた。しかし今シリーズはXY&Zとの明確な繋がりはなく、マサラタウンで暮らすサトシがアローラ旅行に来るところからはじまる。サトシは旅行先でポケモンスクールの存在を知り、自分も学びたいとククイ博士の家でホームステイすることになる。

アローラで「旅」というポケモンの定型からはみ出したサトシとピカチュウは、とても自由に見えた。仲間を増やし、ジム戦に挑み、リーグ優勝を目指すという過去シリーズの一連の流れは、無意識にも主人公に「成長」を義務付ける。成長したベテランを待つのは、挫折やスランプという「大人」ならではの問題だった。

しかし、シリーズがいくら長く続こうが、彼は10才の少年だ。公式がメイン視聴者を子どもと設定する限り、時代が変わっても、サトシは子どもたちに親しみやすさを感じさせるキャラクターでなければいけない。サン&ムーンは冨安監督の下、特に意識して「子ども向け」という視点に立ち返ったシリーズだった。まず、キャラクターデザインがシンプルで緩やかな親しみやすいタッチに変わり、ギャグやパロディをふんだんに取り入れ、ほのぼのとした日常回が多く描かれた。
また、従来のシリーズよりもポケモンを動物らしく扱っていて、サトシのピカチュウも「ピカピ(サトシ)」や「ピッピカチュウ(ゲットだぜ)」と言ったお馴染みのピカチュウ語を使わない。長年慣れていたこともあり、はじめは物足りなさを感じていたが、ピカチュウがサトシの言葉を理解する、しないの加減が絶妙で、その新鮮さも楽しみの一つだった。

「子どもらしいサトシ」「シンプルなキャラデザ」「ギャグ&パロディ推し」「言葉を理解しすぎないポケモン」という特色は、私と同世代であれば無印との共通点を思い浮かべることができると思う。時代も違えばスタッフも変わっているので、描き方に差はあるが、無印アニポケのコンセプトを「少年時代へのノスタルジー」とし、子どもに寄り添った物語を意識した首藤さんの考えに近いものを感じていた。

サン&ムーン編開始の半年後に公開された劇場版は、無印シリーズを元とした「キミにきめた!」だった。無印世代にとっては二つの意味で「少年時代へのノスタルジー」を感じてしまう作品であり、青文字の「ポケットモンスター」というタイトルの記念すべき1作目となった。
サン&ムーン本編とキミきめは直接の繋がりはなく、パラレルワールドのような関係だか、両者に意識して描かれていることはとても似ている。一つは前述の「子ども向け」の視点、もう一つは湯山監督の言う「ポケモンネイティブ」への視点だ。

子どもの頃からポケモンという存在を身近に感じながら育ったポケモンネイティブも20代、30代となり、立派な親世代となった。ポケモンの成長を支えてきた彼らが、自分の子どもとアニポケを楽しんでくれるためには……ということを冨安監督は常に考えてきたのではないだろうか。

サン&ムーンと無印の類時点については述べてきたが、大きな相違点がひとつある。それは「大人の描き方」だ。
無印に登場する大人は、頭が固くて下らないことで揉めたり、人を貶めたりと意地の悪いキャラクターが多い(思い付くのは「たいけつ!ポケモンジム」でストライクとエレブーを戦わせるジムリーダーとか、「アオプルコのきゅうじつ」のおばばとか)。第1話に関してはハナコママもオーキド博士も、これから命懸けの旅に出るサトシに対してわりと淡白だったりする。こうした描き方は「子どもの気持ちは子どもにしかわからない」という、首藤さんらしい線引きのように感じる。だが、首藤さんが作ったポケモン世界の魅力は凄まじく、結果としては「ポケットにファンタジー」のような大人が私を含め、たくさんいる。

そんなポケモンネイティブを肯定してくれるのが、ククイルザミーネというキャラクターだ。
サン、ムーンの原作ゲームのテーマは「家族」だと聞くが、それはアニポケにも通じている。
ククイとサトシのやりとりは、本当の親子でなくとも家族のようだし、反対に血の繋がった親子であるにも関わらず、良好でなかったルザミーネグラジオ、リーリエの関係も面白かった。特に、今作の悪役となるはずだったルザミーネの改編は、個人的にはとてもよい判断だったと思う。ククイルザミーネポケモンのことが大好きで、サトシと同じように夢に向かって懸命に取り組んできた。その過程でククイグズマと仲違いし、ルザミーネは家族を省みれず子どもたちに孤独感を抱かせてしまう。真の悪役がいないからこその日常のすれ違いのリアルさが、他のシリーズにはない魅力だった。

細かい部分の話をすると、日常生活の場面が増えたことでサトシが家事に挑戦するシーンが見れたのも嬉しかった。無印~は保護者としてのタケシがいたし、XYではサトシにベテラン感がありすぎて、家事を手伝わない父親のように見えてしまうのが辛かった。
最初ククイは独身で、途中でバーネットと結婚する、という流れも良かったと思う。結婚前にバーネットが家に来て家事をしようとした時に、ククイが「家事をしてもらうなんてとんでもない!」といった発言をしたことに、妙に感動したのを覚えている。家事は特別なことではないし、サトシも苦手だからやらないのではなく、苦手なりに前向きに取り組む姿勢が見ていて気持ち良かった。

主人公サトシの物語として見ると、少し物足りない部分はあったかもしれない。何せ、主人公が困難にぶち当たることがあまりない。問題が起きても、持ち前の明るさと機転の早さで乗り越えてしまうのだ。
サン&ムーンのサトシは少なくともカントージョウトを旅しているし、バトルの経験も豊富で、精神的に追い詰められる場面もない。サトシ自身が「成長」することを義務付けられなかったはじめてのシリーズとも言える。過去最高の状況でリーグ戦に出場できたのだから、優勝も当然だ。

ただ、ククイとのエキシビション・マッチの結果は、正直予想ができなかった。サトシにとってのククイは、先生であり、親であり、大切な家族だ。一方、ククイにとってのサトシは家族であることはもちろん、バトルの楽しさを教えてくれた相手であり、憧れ、目標のような存在だったのだと思う。3年間、一緒に生活しながらも一度もバトルしたことのなかった両者のバトルは、どちらが勝っても感動的だったはずだ。
今回、サトシが勝ったのは何故か。ククイポケモンネイティブを体現したキャラクターだったからだ。子どもの頃にサトシに憧れ、ポケモンと共に成長し、大人になってもう一度サトシと真っ向勝負したいと全力で戦い、もう一度負けて、またサトシに憧れる。こんな幸せなことはないと思う。

サン&ムーンの第1話でカプ・コケコにZリングをもらった時から、サトシはこれまでの挑戦者としての立場以上に、アローラの救世主としての役割が強かったのかもしれない。サトシが自然体のまま救世主として活躍できたのは、20年以上の旅の経験があってこそだし、旅の途中で巡り会えた大勢の子どもたちが今もなお、サトシに憧れて応援しているからだ。そして、このサン&ムーンでポケモンネイティブになった子どもたちが大人になる時代が待ってるのなら、意外に未来は暗くないかも、と思ったり。

個人的には最高傑作だったサン&ムーンシリーズ。この年齢で最後まで完走できたのは奇跡かもしれない。シリーズの終わりはいつだって寂しいけど、サトシの途方もない夢の先をいつまでも見ていたい。
2回目の「ポケットモンスター」、楽しみにしてます。

「アンディ」という呪縛

トイ・ストーリー4に関しては、予告の段階からウッディが「おもちゃとして子供の側にいる」以外の選択をするんじゃないかと話題になっていたし、公開後も「そうなんだろうな」と思える感想ばかり見かけたので、ストーリーについては予想の範囲内だった。

範囲外だったのは、アンディという過去の存在にがんじがらめにされた今のウッディ。冒頭のアンディとの思い出から、悲しくて、愛しくて、涙が止まらなかった。
見終わってからも「アンディのおもちゃだからだ」というウッディの過去のセリフを、繰り返し思い出している。

トイ・ストーリー」シリーズはウッディとアンディの物語だった。完璧なはずの二人の関係を脅かす存在として、バズが現れるところからシリーズが始まる。
2では、持ち主に捨てられた経験を持つジェシーが登場。いつかはアンディが離れていく未来を予感しながらも、ウッディはアンディの側にいる選択をする。
そして3では、遂にアンディとの別れが訪れる。アンディとボニーがウッディたちと遊ぶ最後のシーンを見て、トイ・ストーリーは完璧なラストを迎えた(と思った)。

ウッディはボニーの元で第2の人生を幸せに送っているんだと、誰もが思ったことだろう。だけどそんなのは私たちの幻想なんだよ、とディズニー(ピクサー)は突き付けてきた。

1からウッディが一番恐れていた事が現実になってしまったのがこの4作目だった。
「誰かの一番」を知っているウッディは、バズを蹴落とそうとし、捨てられる前に逃げようか迷い、最後は自分でアンディから離れる決意をする。それはおもちゃを大切にし、アンディのように遊んでくれるボニーがいたからこその決断だったはずだ。
ウッディがボニーのお気に入りになれなかったのは仕方のないことで、ボニーに悪意がないからこそ辛い。

ウッディは誰よりもアンディの事を大切に思っていたし、ボニーに対しても同じように尽くそうとしていた。
しかし、ウッディにとっての「子供」はアンディただ一人だったということが、アンディとの別れを経てから気づいてしまうという残酷さ。

今作を受け入れられない人の気持ちもよく分かる。2で絶望していたジェシーと同じように、新しい持ち主の元で幸せに過ごすウッディを、私も見たかった。
でも、2で「アンディは成長する」という設定を組み込んだ時点で、3そして4の過程は避けられなかったように思える。

私が4をすんなり受け入れられたのは、ウッディの言動全てに現れた、アンディへの消えない思いが実に丁寧に描かれていたからだ。
アンディとの幸せな思い出があるからこそ、ウッディはフォーキーにおもちゃとしての意識を持たせ、ギャビー・ギャビーにボイスボックスを、ジェシーに保安官のバッヂを譲り渡した。
そして、アンディのおもちゃたちのリーダーという立ち位置を外れてはじめて、ウッディは「アンディ」という呪縛から逃れられたのではないか。

作中に登場するアンディは、全て過去の回想だった。壊れない限り、永遠の命を持つおもちゃにとって、持ち主との別れは死別と同義だったのだ。
そして、今作はウッディが思い出の中のアンディと別れるための、お葬式のようなセレモニー的作品だったのではないか。

ウッディの未来は白紙だ。また新しい持ち主が見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。思いがけず、大人になったアンディと出会うこともあるかもしれない。
持ち主の元を離れてもなお、「子供と遊ぶ事が何よりの喜び」だと理解しているウッディに私は安心した。また気が向いたら、子供と一緒に遊んでくれたらいいなと思う。

「自由」と「権力」はイコールなのか?

アラジン、いい意見も悪い意見も聞いていたのでどんな感想を抱くか予想できなかったけど、個人的には大満足だった。

実写リメイクをどうとらえるかは人によって違うので難しいところだけど、私は原作と同じことをしても意味がないと思っているし、やるなら原作を越えなければいけないと思うので、アニメを踏襲しつつ、いろんなアレンジを加えるさじ加減が良かったと思う。
美女と野獣」はリメイクとしては物足りなかったので、今作はその鬱憤を晴らしてくれた。
アグラバーの町並みや衣装の美しさは、実写ならではの良さがあって飽きなかったし、もう一度見たいと思う。

概ね自分の中ではあるものの、気になった点があったので、その部分について敢えて書いてみる。


今回の実写はスルタンになりたいジャスミンに注目が集まりがちだけど、同時にアラジンの立ち位置もかなり変化している。

酷い暮らしをしている主人公が魔法の力を借りて王族と結婚する、という筋書きから、私はアラジンは男女逆転版シンデレラだと考えていて、アニメの製作陣もきっとそれを意識していたと思う。
ただ、シンデレラは元々はいいお家の娘で、いじめられてはいるものの、そこまで身分は問題になっていない。シンデレラは舞踏会に行く権利があるし、不当に剥奪された権利を取り戻すためにフェアリー・ゴッドマザーが現れる。
一方アラジンは法律で王女の結婚相手は王子と決められており、最初からアラジンにジャスミンと結婚する権利はない。完全に身分違いの恋である。

実写版はジャスミンもアラジンに自分の身分を隠す時間が長い。アニメではジャスミンのせいでアラジンが処刑されてしまう下りがあるので、彼女も後悔するのだけど、今回のジャスミンは身分を隠したことを深刻に考えていないように見えた。
アラジンが王子だと言い張る嘘と、ジャスミンが侍女だと言い張る嘘は、魔法を使って高い身分となったアラジンだけが悪いのだろうか。

結局、ジャスミンが女性初のスルタンになるというのは、ジャスミンがプリンス・チャーミングになる事と同義だと思う。王子は国王になることを約束され、自分で結婚したい人を自由に選ぶことができる。国中の女性にガラスの靴を履かせてシンデレラを探すことに、誰も異義は唱えない。
スルタンとなったジャスミンは、元の世界に戻ろうとするアラジンを連れ戻しに行く。権力を手にし、すべてを正当化することができる存在となる。
そして正体が明らかとなり、城を後にするアラジンの姿は、シンデレラとしての立ち位置を完全に確立したように思える。

ジャスミンは聡明で、権力を悪用する訳はないんだけど、この作品で重要な「自由」という願いが、権力で解決されてしまうのはちょっと惜しい気がする。

例えば、ジャスミンがすべてを捨ててもアラジンと一緒にいたいと思ったなら、城から抜け出してアラジンと駆け落ちすることもできたのではないか。
例えば、本当の自由のために、スルタンとなったジャスミンが王政を廃止して、アグラバーを民主的な町にするところまで描けたら良かったのではないか。

何も持たないアラジンに対して、今作のジャスミンはあらゆるものを持っているように感じてしまう。
ジャスミンやプリンス・チャーミングを、悪者として捉えたいという意図は全くないのだけど、果たしてジャスミンがプリンス・チャーミングになることが女性の地位向上なのだろうか。

正直なところ、今作でもっとスポットを当てるべきは「女性」よりも「格差」だったのではないかと思っている。アラジンとジャファーを似た設定にするなら、尚更そうすべきだったと思う。なぜなら、アラジンが王子の振りをし、ジャファーが権力に固執した理由が「格差」だったから。
ジャスミンは女性ということでスルタンになれず、抑圧された存在であることは間違いない。だが、それでも王女だ。生きていく為に盗みをするしかないアラジンの方がよっぽど抑圧されている。
スルタンになりたいという王女かいることは悪いことではない。ただ、タイトルロールの主人公が王女の活躍に割を食ってしまった感は否めない。しかも、ディズニーで人間の男性が主人公になる数少ない作品であるにも関わらずだ。

アナ雪もそうだけど、女性vs男性という構図をこのまま続けていくのは、あまり良い戦略とは思えない。女性が強くなるとこで男性にアラジンのような我慢を強いるのも、ちょっと違うように感じる。

ただ、原作アニメ公開から25年以上過ぎた今でも、ランプの魔神や空飛ぶ絨毯より、架空の中東の国でスルタンを名乗る女性が登場することが、この作品における一番のファンタジーのように思えて、それはそれで複雑な気持ちになる自分がいる。
今作のジャスミン像に、長年女性の描き方に悩み続けてきたディズニーの苦悩を垣間見るような気がした。

5/17 ARASHI Anniversary Tour 5×20 @札幌ドーム

人生初の遠征で札幌ドームに行ってきました。
レポと言うよりは雑感です。

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休止の会見後初めて生で見る嵐は、みんなすっきりした顔をしていて、自分も気持ちが軽くなったような気がした。

コンサートで大野さんは「今年39になるけど、今が一番いいパフォーマンスができていると思うし、ファンのみんなのお陰で体型維持できてる今の自分がある」というような話をしていて、本当に真面目な人なんだなと改めて思った。
手を抜く方法も覚えたと言って大野さんは笑っていたけど、実際は「嵐」であり続けることに手を抜くなんてできないのだと思う。

5×20は「untitled」とふたつでひとつなのだと思っている。
どちらも嵐の過去を振り返り、未来を思い描いていくようなコンサートだけれど、かなり対照的な印象を受ける。

「タイトルをつけるのは観客」という意味を持たせ、客観的な視点で自らを省みようとした「untitled」と、“5”という数字に並々ならぬ意味付けをした5×20。

後付けのようではあるけれど、嵐の休止に向けての話し合いの期間を重ねて見ると、さらに重みが増すように感じる。

名前をつけることができなかった
「untitled」と、考える前から名前が決まっていた5×20。

今回2回目の5×20を見て、嵐は「寂しい」とか「切ない」とか、後向きな気持ちは全部「untiled」に置いてきてしまったんだなと思った。
5×20はただひたすら前向きで、悲しむ暇さえ与えてくれない。
「嵐を宝箱に閉じ込めたい」という翔さんの言葉を思い出す。

平成を代表するアイドルらしく、嵐の楽曲は「嫌なことも多いけど、希望を捨てずにやっていこう」みたいなニュアンスの曲が多い。
「終わりがあるから楽しめる」という諸行無常の生死観みたいな儚さがあって、その儚さが彼らをアイドルとして昇華させている。

5×20では懐かしい楽曲もたくさん披露してくれるけれど、今の嵐のために、過去の嵐が歌ってきたような歌詞ばかりで、本当に驚かされる。

特にアンコールのLove so sweet。
コンサートの立ち上げから当日までの舞台裏の映像をダイジェストで流してくれる。
しんみりする曲ではなく、嵐を代表するラブソングで「信じることがすべて」と言ってくれる優しさが素晴らしい。

嵐は本気で、2020年の最後まで打ち上げ花火を上げ続けるつもりだ。
その日までちゃんとやり遂げて、しっかり休んで、また次の打ち上げ花火を見せてくれる。

今回のコンサートは「嵐を好きでいて良かった」と思えたのと同時に、私達ファンがいくら好きだと言ったところで、嵐のメンバー5人の嵐への愛には到底敵わないと思い知ることができた。
大人になればなるほど、信用できない事が増えていくけど、嵐の言葉だけは信じられるのが不思議だ。
ファンとして、こんなに嬉しいことはない。

嵐にとっても元号が変わって初めてのコンサートだった。
「悲惨な時代」に生まれながらも愛とか希望を探そうとしたアイドルが、令和の時代にもきっと必要だし、嵐が見ている未来を、私も一緒に見てみたいと思う。

Harry Potter and the Forbidden Journey

2月の話になるけれど、10年ぶりにUSJに行ってきた。

目的はもちろん、The Wizarding World of Harry Potter

ファンタビ2作目の公開からハリポタ熱が再燃し、今一番行きたかった場所。


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がっかりしたくないのであまり期待しないようにしていたけど、そこには本物のホグズミードの光景が広がっていた。

ゆっくり町並みを楽しみたい気持ちを抑えながら、エクスプレスチケットを購入していたので時間ぴったりにHarry Potter and the Forbidden Journeyの入場口へ。

 

足元が見えないくらい薄暗いホグワーツ城に入ると、校長室や闇に対する防衛術の教室、グリフィンドールの談話室などを通り抜けて「必要の部屋」を目指す。

肖像画はもちろん動くし、セットは映画に忠実で、透明マントに隠れるハリー、ロン、ハーマイオニーの会話も楽しめる。

 

アトラクションの所要時間は5分と短いが、最新技術でメガネやゴーグルなしでリアルな魔法の世界を体験することができる。

乗客は空飛ぶ椅子で、箒に乗ったハリーを追いかけながらホグワーツを駆け抜ける。

ロンもクィディッチのユニフォームを着ているので、時系列としては6作目の「謎のプリンス」らしい。

 

とにかく感動するのは、空を飛んでいる感覚のリアルさ。

こどもの頃から何度も読み、想像し、映画を観て興奮したあの感覚を生で体感することができる。

途中でクィディッチの試合にも乱入し、スニッチを追いかけるシーンまで再現されている。

謎プリでは試合シーンのないマルフォイが出てくるのもめちゃくちゃ嬉しい。

 

最後、湖の上から見上げたホグワーツ城は壮観の眺めで、思わず涙が出てしまった。

またハリーと空を飛べるなら、何度でも行きたいと思ってしまう。

 

アトラクションのあと、オリバンダーの店に行った。

一度どんな流れなのか見れれば……と思って入ったが、いきなり1回目で杖の番人に魔力を見込まれ、指名されてしまった。

スタッフさんの話だと、杖を手に入れるために何度も並んでチャレンジする人も多いのだとか。

2回目、3回目の体験で当てられたなら、断ってしまったかもしれないが、初めての訪問でとなると、オタクとしては運命を感じざるを得ない。

しっかり4900円をお支払し、ブドウの木、ユニコーンの鬣の杖を購入した。

私が選んだのではなく、杖が私を選んだことは強調したい。

 

あの杖の番人、魔力よりオタク力を見出だす天才に違いない。

 

関東住みだけど、任天堂エリアができたら年パス購入を真面目に検討しようと思う。

青い鳥の行方

私はもともとアイドルに夢中になるという感覚を持っていない人間だったから、嵐を好きになった今でも、日本のアイドルの在り方には疑問がある。

 

特に熱愛報道のバッシングは本当にひどい。
人を好きになるという、人間として当たり前のことを批判して時には謝罪までさせる。
犯罪でもなんでもないのに、アイドルだと認められないなんて人権侵害でしかない。

 

嵐にも噂はあるけれど、私は彼らの言葉だけを信じるし、メンバーが幸せになれるなら何の問題もない。

それでも、名前が大きくなればなるほど心ない言葉は耳に入ってきてしまうだろうし、それで傷つくのも当然だ。
真実かどうかなんて関係ない。

 

大野さんのような人が20年嵐でいてくれたのは、紛れもなく他の4人のおかげだと思う。
大野さん自身が自由になるより、嵐でいたいと望んでくれたから。
大野さんも嵐が大好きで、だからこそ自らの手で嵐を壊してしまう怖さもあっただろうと思う。

 

最終的には大野さんが気持ちをメンバーに告白できて、それを大野さんの問題じゃなくて嵐の問題として考えてくれた5人の関係性が素晴らしい。

 

大野さんにとって世界で唯一、嵐のメンバーだけが自分をアイドルではなく、一人の人間として見てくれる存在だったのかもしれない。

 

嵐としての活動を休止したあと、大野さんは本当に自由になれるのだろうか。
日本にいたらマスコミに張り付かれて、少しも気が休まらないのではないか。
どうか携帯なんて持たずに、浮世離れした生活をしていてほしい。

 

大野さんの魅力は言葉では表しきれないけれど、簡潔に言ってしまえばギャップだと私は思う。
嵐を好きになる前、バラエティーに出てもちっとも喋らない彼をみて「どうして芸能界に入ったんだろう?」と素直に思った。
当時の自分の浅はかな感想は、ある意味真理だったのかもしれない。

 

完璧に美しいのに我のないパフォーマンスとか、優しいだけじゃなくてちょっと憂いを帯びた表情とか、挙げはじめたらきりがないけれど、とにかくアンビバレントな魅力が絶妙な均衡を保って形成されているのが、私にとっての大野智という存在だった。

 

だから、アイドルでありながら「自由になりたい」と願う大野さんの心情も、間違いなく彼の魅力の一部だ。
もっと大野さんらしくなるために、必要な決断だったのだと思う。

 

世間は、この奇跡のような存在を殺さないよう留意してほしい。
飛び立った青い鳥が、幸せの場所を自ら見つけられるように。

無題

嵐について。

2017年の嵐のコンサート「untitled」が本当に大好きで、東京ドームでみてからBlu-rayの発売が楽しみで堪らなかった。

untitledというアルバム&コンサート名が決定するのと、嵐が休止に向けての話し合いをはじめたのと、どちらが先だったのか私にはわからない。

けれど、きっと大野さんの相談を受けての「untitled」だったのではないかと思っている。

 

自分はいろんなものに興味のあるオタクだけど、基本的に何かを好きになる上で重要なのはストーリーとキャラクターだ。

好きな登場人物を演じる俳優さんや声優さんが良くて、後から本人を好きになることはあっても、その逆はほとんどなかった。

嵐を好きになったのも、「魔王」のDVDをみて表現者としての大野さんを好きになったのがきっかけだった。

 

芸能界に疎くてジャニーズに興味がなかった私が、大野さんの才能に魅せられ、嵐というグループごと好きになったのは自然な流れだった。

しかし同時に、違和感も感じていた。

それは作品を好きになることと、アイドルという生身の人間を好きになることのギャップだったんだなと、今なら思う。

 

アニメや映画なら、長寿作品のキャストが途中交代する可能性もあるけれど、製作陣の続けようという意志があれば続けることができる。

それがアイドルになると、どうしたって替えが効かない。

「嵐を好きになる」ということは、結果的にメンバーの人生を娯楽として消費することなってしまう。

彼らが嵐でいつづける事実そのものが作品なのだ。

そして悲しいくらい、嵐自身もそれを自覚している。

 

2017年当時、未来の嵐の在り方を模索する最中に選ばれた「untitled」という題。

その言葉自体に強い意味はないが、コンサートそのものは大曲「Song for you」を中心に、極めてメッセージ性の高い選曲で構成されている。

それこそ「Song for you」のニュアンスをタイトルにすることもできたはずだ。

しかし、嵐は最後を「未完」で飾り、あえてタイトルをつけられないセットリストにした。

「無題」でも作品になり得るのが嵐、というべきか。

 

以下、untitledをみた直後の自分のツイート。

 

 

1月27日の会見では「誠意」という言葉をよく聞いた。

“未来への「約束」ではなく、今現在の「決意」を見せる”というuntitledで感じた姿勢は、あの時の嵐の「誠意」そのものだった。

誠意があるからこそ、大野さんは自分にもメンバーにもファンにも、嘘をつきたくなかったんだろう。

 

会見での嵐は完璧だった。

話し合ってきた時間の重みが、確かに感じられた。

私は嵐のファンであることを誇りに思うし、短いながらも好きでいて本当によかったと思う。

メンバーの心強い言葉と笑顔に、元気づけられるばかりだ。

 

だけど、それでもやっぱり、どうしようもなく辛い。

これは、生身の人間の人生を娯楽として楽しんできたことへの罰なんだと思う。

 

「嵐を宝箱に閉じこめたい」という翔さんの言葉は、優しくてエゴイスティックで残酷で美しい。

「終わり」があることを嫌でも突きつけられる。

そんな脆さと美しさの狭間で、嵐というアイドルはこれから、なお一層輝こうとしている。

 

「未完」のその先を、ずっとみたいと思ってきた。

でも今は、そのための一歩がとても怖い。

泣けも笑えもせず、立ち尽くしてしまう自分がいる。

 

同時にあの日、東京ドームで、はっきりと目をみて手を振り返してくれた大野さんの笑顔を、大野さんの誠意を、私は忘れることができない。

 

“Do you wanna ride!? ”の呼び掛けに応えられる準備を、少しずつでもはじめられますように。